時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●映画の寅さんでお馴染みの葛飾柴又が、「国の重要文化的景観」に選定されました

都内初で、「国の重要文化的景観」に選定されました。

葛飾柴又の文化的景観

その場所を眺めてみます。

IMG_20180310_0003 (3)


その中であまり知られていないようですが、「山本亭」の庭園は、足立美術館庭園、桂離宮についで三位に入る庭です。

それを伝える、記事を紹介。

リサイズ40色付き 2017・2・15 足立美術館庭園 14年連続1位 - コピー


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●関東郡代、伊奈氏あれこれ 下屋敷跡が東京拘置所

川口市赤山にある赤山城は、関東郡代伊奈氏の城で赤山陣屋とも言われています。

赤山城(あかやまじょう)は、埼玉県川口市にあった城。赤山陣屋とも表記される。埼玉県指定文化財(旧跡)。

江戸時代初期の1629年(寛永6年)に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城した。現在は堀跡などが残り、一部が公園として整備されている。本丸と出丸の間には東京外環自動車道が建設されている。以上、これは、ウイキペディアから。

その場所が次の写真

リサイズ40赤山陣屋と周辺図P1070227 (2)

「城址の南端あたりには川口パーキングエリアが建設されている」と記述されていますから位置はおおよそ分るでしょう。

「浮間わいわいねっと(川口散策)」から

伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領1万石を給され。熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永6年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代163年間伊奈氏が居城したものである。

続いて「同ネット」から

忠次の死後、幕府内での伊奈氏の地位を不動にしたのは、三代忠治である。当初八百石の勘定方として出発した忠治は、寛永19年(1642)には関東郡代に任ぜられ、忠次からの事業を引継おしすすめていった。江戸幕府初期の支配体制・財政基盤確立に果たした忠次・忠治の功績は非常に大きい。
4代忠克以降にも、新田開発・治水事業にとどまらず、災害時の救民活動や江戸深川の市街地化など、伊奈氏の業績は数多い。
しかし、十一代忠敬の後継者として、幕府は板倉周防守勝澄(備前国松山)の十一男忠尊(ただたか)を忠敬の養子として迎え、娘美喜の婿として伊奈家十二代を継がせます。十二代は天明の大飢饉 江戸打ちこわしの収拾などに力を発揮して町人には感謝された。ところが十一代忠敬に実子忠善が誕生。忠敬死去後、伊奈家の主人公として実権を振るいたかった忠尊と忠善。それに伊奈家の権威を阻む幕府。家督相続は「毒殺」や「出奔」に至り、忠尊は営々蟄居。知行没収。忠善は幽閉の身となります。やがて幕府の手によって赤山の陣屋も取り壊され関東郡代伊奈家はここに終止符を打たれます。寛永6年から163年間続いた関東郡代伊奈家。養子の問題はじめとする家内の不始末や、忠尊自身の不行跡を理由に関東郡代を罷免され、伊奈家は改易となった。直参の旗本としては存続し新地1千石で幕末まで続いた。


飛騨高山に高山陣屋が残っていますが、これは、6代忠篤が元禄5年(1692)飛騨高山郡代を兼務したときにつくられたものです。これは、高山陣屋へ行けばその歴史が確かめられます。

伊奈氏の江戸上屋は、「同ネット」によれば

伊奈氏の江戸屋敷は当初江戸城常磐御門内にあったが、明暦3年(1657)の大火で類焼し、馬喰町に移った。屋敷内には郡代役所があり、伊奈氏改易まで馬喰町郡代屋敷として機能した。 かつての江戸屋敷の位置は、現在の総武線浅草橋の近くにあたる。


さて、同ネットで触れておりませんが、下屋敷はどこにあったか?

それは…

この石灯篭

りさいず30 小菅御殿石灯籠P1060649

リサイズ30 解説

書き下ろし ↓

旧小菅御殿石灯籠
所在地  葛飾区小菅一丁目35番地
登録年月 平成元年(1989)3月20日
葛飾区教育委員会

 現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736)7月、伊奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。
 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
 旧小菅御殿石燈篭は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をぐりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確ではありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈寵は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。

荒川土手に面した東京拘置所の門内にあります。

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●秋 皇帝アリアとバラの花… 奥戸フラワーパーク

ここを訪ねた目的は、皇帝ダリアでしたが、日が短くならないと花芽ができないそうで、開花期が遅く11月下旬から咲き出すそうです。近くに街灯や電灯があると日が長いと感じ、花芽をつけないそうですがここの環境では心配なさそうですね。
皇帝ダリアとは、茎というのか幹というのか迷いますが、太くて、丈も1~6メートルくらいになるそうです。

これがそれ!

リサイズ30P1070195皇帝ダリア

バラがメインのようで、
今を盛りと、少し盛りの過ぎたものを含めて咲いていました。そのバラを撮してきました。
リサイズ30名前付P1070181ゴールドハニー
リサイズ30名前付P1070185黒真珠
リサイズ30名前付P1070187レッドクイン
リサイズ30名前付P1070189センティンドエアー
リサイズ30名前付P1070192ホワイトクリスマス
リサイズ30名前付P1070196光彩

まだまだいろいろの種類があり、バラ好きにはたまらない場所。時季を変えて見に来ましょう。

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●新選組流山の陣へ…五兵衛新田

流山に行くと新撰組流山本陣の地となったという場所があります。

その説明には、五兵衛新田を逃れてこの地流山に来たということが書いてあります。

ところで、五兵衛新田ですが、東京メトロ千代田線綾瀬駅の近くにあります。北千住から荒川と綾瀬川を越えると綾瀬駅。西口を降りて電車の進行方向の左側に行くと右手奥に一つ目のゆかりの地があります。流山に向かう前に滞在したお寺です。

リサイズ 稲荷山観音院P1070122

リサイズ稲荷山観音院文書P1070165

見にくいので文字起こしをしてみます。


稲荷山蓮華院観音寺

真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で十七世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶應四年(1868)三月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新選組が流山(千葉県)に撤退したというエピソードを持つ。
 開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に大師堂や鐘楼があるほか、五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
 本尊は十一面観音菩薩で江戸時代初期の作。境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八か所五十一番.荒綾(こうりょう)八十八か所七十番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に漢文四年(1664)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形文化財となっている。
 平成八年三月
 足立区教育委員会

次に、金子家へ向かいます。

この付近には旧家が散見されます。

リサイズ付近にある旧家P1070153

金子家とは違います。

少し行くと橋がみえてきます。

リサイズ 橋P1070161

五兵衛新橋とその奥に見えるのが、五兵衛橋です。何やら掲示がありますので近寄りましょう。

リサイズ五兵衛橋P1070154


この下をくぐるとすぐ右手に金子家があります。

リサイズ金子家P1070146

りさいず金子家文書P1070159

これも文字起こしをしてみました。

 金子家文書(新撰組関係資料二十一点)
幕末の動乱期、当金子家に新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が半月にわたって滞在していた。
当家には覚書、願書、書簡、それに鎮撫隊の動向書、風聞書など、その間の新撰組の動きを知る貴重な資料が多数保存されている。
これらの文書から見ると、新撰組の当地滞在期間は、慶応四年(一八六八)三月十三日から四月一日まで二十日間。人数は当初四十八人から次第に増加して、終りの頃には二百三十余人達し、金子家ほか近くの観音寺に分宿していた。
主な資料をあげると、「乍恐以書付奉申上候」=五兵衛新田の年寄源右衛門が、金子家に近藤勇達が宿泊していることを代官所に届け出たものである。
「おぼへ」=当主健十郎が認めた賄方の記録で、滞在期間の動向を知る貴重な資料である。
書簡=代官佐々井半十郎より医師松本良順宛と近藤勇宛のもの等がある。
これらの資料は足立区登録有形文化財となっている。
また、当家の祖先であり「五兵衛新田」の開拓者の一人である金子五兵衛の墓(足立区登録有形文化財)
は、観音寺に建立されている。
平成十二年十一月
足立区教育委員会

文書は、見ることはできず、また両所とも一般公開されていませんので物足りませんが足取りの拠点が此処ということ。

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●流山本町江戸回廊 ローカル線の町

補記 2017・10・9末尾に焔魔堂にある、「金子市之亟」と「三千歳」の部分、現地に建てられている案内板の説明にかなり無理があります。
その時、触れておけばよかったのですが、再訪してみて、多くの人が、ボランティアガイドさんを含め、そのまま受け取っていましたので…

当地に伝わる話として、金子市之亟が義賊という話は、そういう話があるのでしょうが、文中にある歌舞伎の『天衣紛上野初花(くもにまがううえののはつはな)』に出てくる金子市之亟は、剣客で、直侍ともいわれる片岡直次郎を情人にもつ三千歳を口説いていますがきっぱりと断られています。
市之亟は、未練たっぷりりで、恋敵直次郎を斬ろうとしても失敗。ちょっと情けない人物です。

あまり演されませんが、この芝居では、市之亟は、三千歳の腹違いの兄と分かるところがあります。

見取り(みどり)公演で、いよいよ追い詰められた直侍が最後の別れに三千歳を訪ねるくだりの部分がしばしば上演されます。人気のある場面です。

冒頭に補記として記しておきます。

以下本編です。

東京メトロ千代田線げんちのttの綾瀬駅から常磐線に乗りれてすく、松戸の一つ先、馬橋(まばし)が旅の入口です。都内への通勤圏とも言えるこの地ですが、何と言おうと、まぎれもないないローカル線であり、その名に恥じぬ豊かな町です。
馬橋駅から流山迄20分とはかからない鉄道。それが流鉄流山線です。

JRからすぐ乗り換えられますが、ここでは、スイカもPASMOも使えません。硬券を切符売場か自動切符販売機で買います。

流鉄流山線馬橋駅P1060946(1)


勿論単線でこんな車両。かつて西武鉄道で走っていたものです。

流山南高校家庭科部装飾電車(1)

流星号と名付けられた車両ですが、この期間は「流山南高校家庭科部装飾電車」。

ホームはこんな感じ。線路が沢山見えるのは、常磐線の線路です。

馬橋駅P1060948(1)

平和台駅を下車して、本町、終点流山駅へ向かいます。

駅前。いろいろな道がここで交差していることが窺われます。

平和台駅前のスクランブル交差点、イトウヨーカ堂P1060955(1)

平和台駅前P1060954(1)

白みりんの里とあります。上方から下ってくるみりんは、ひと月もかかって江戸に届きますが、発酵して色がつきます。当時みりんは、酒の一種として飲み物でしたが、ここ流山産のみりんは、数日で江戸届き出来立て。大変喜ばれ、人気になりました。流山が栄えた元。

流山という地名の由来

赤城神社と赤城山解説P1060974(1)

赤城神社の鳥居

赤城神社鳥居P1060977(1)

赤城神社解説P1060975(1)

赤城神社の大しめ縄P1060972(1)

大しめ縄行事解説P1060973(1)



いよいよ赤城神社へ

赤城神社参道P1060962(1)

赤城神社奉納幕P1060966(1)

赤城神社御本殿解説P1060964(1)

境内社に、松尾神社 酒の神様です

境内にある松尾神社P1060968(1)

同じく、波切不動尊

波切不動尊P1060970(1)

流山への登山口

赤城山への登山道P1060958(1)

山容

赤城山山・通称流山P1060957(1)

赤城神社の鳥居に並んで、別当寺の光明院があります。

光明院P1060981(1)
光明院解説P1060982(1)

当時、天晴みりんと万上みりんが味を競っていて、その天晴みりん誕生の地。説明…

天晴みりん誕生の地碑P1060983(1)

小林一茶は、この天晴みりんの秋元家にしばしば寄寓したことで知られています。

小林一茶寄寓の地解説P1060985(1)

双樹と号していたことからこの場所へ移築して「一茶双樹記念館」として開放サテています。

双樹亭

双樹記念館の内部案内版P1060996(1)


右へ行くと一茶双樹記念館の庭へ。途中一茶句碑があります。「夕月や…」の句碑です。

組合せ 一茶双樹記念館にある句碑・夕月や流残りのきりぎりすP1060986(1)

枯山水の庭

石囲いの井戸P1060995(1)
枯山水の庭P1060989(1)

床の間に「天晴」と書かれた軸が掛かっています。明治31年小松宮彰仁親王が立寄られたとき揮毫されたもの。この文字が標章として後に使われました。

奥の間に天晴の軸P1060990(1)

天晴は一時、三菱商事預かりとなり生産されていませんでしたが、最近、系列社から出ていた「三楽みりん」を、2015年1月より、「天晴」として発売されています。

万上みりんは、キッコーマン社の中に入り、流山キッコーマン(株)となり、ここで生産されています。
この工場の外壁が「街角ギャラリー」として往時の流山の様子を入見せてくれています。

街角ギャラリーP1060999(1)
街角ギャラリーP1060998(1)
組合せ 万上みりん敷地図P1070002(1)


この通り(万上通り)に青面金剛塚があります。庚申塚ですね。

青面金剛塚P1070005(1)
庚申講信仰資料の解説P1070006(1)

この先を左に折れると近藤勇はがれ山本陣跡に出ます。

北海道へ逃れるとき、足立区の五兵衛新田からここへ来た時の宿陣です。五兵衛新田は、東京メトロの「綾瀬駅」付近です。

今度勇陣屋跡P1070008(1)

りさいず50 近藤勇陣屋跡P1070007

その先に、焔魔堂があり、ここに金子市之亟の墓があります。

歌舞伎では、直侍と三千歳として知られる三千歳ですが、実際は、遊女で金子市之亟馴染の人物。

焔魔堂・金子市之亟と三千歳の墓があるP1070010(1)

電池切れでその墓と隣にある三千歳のものという石があります。

電池切れ前に撮ったのが「流山本町江戸回廊」として家の前に飾られている看板燈篭。今のその家の商売とその前の商売が書かれています。もちろん同じならばそのまま書かれています。これを頼りに散策をすれば町並みの様子が知れようというもの。

旧商売屋」示すを行灯P1070009(1)

髪結い処(かみゆいどころ)の草花さんですね。

この町には見どころとなる建物が三つ。食事処としては、「丁子屋」があります。ここは、旧い建物を残して内装が新しくなっています。こんな古い町とは思えないようなもてなしがあります。

ここから5分ほどで流山駅です。

古い車両が置かれています。

ローカル線の旅でした。

最後に、この旅は、ボランティアガイドさんに案内してもらいました。

ボランティアガイドP1060956(1)

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