FC2ブログ

時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

●披露山公園経由、鎌倉名越切通しから大町日蓮辻説法跡まで歩く

逗子から鎌倉駅へ行くバスを使って途中の披露山公園で下車。右手の住宅の立ち並ぶ坂道を登って行くと鎌倉の大切岸の見えるところへ出ます。一番右端の道を選んで行くのですが、途中から左の路へ這入ります。目印が無いので何処と云えませんが、ここを間違えると思った所に出られません。

大切岸へ出れば、すぐそこが名越の切通しです。様子を三つ 

切通・遠景P1050394 (640x469)

切通アップP1050395 (640x479)

石を見せるP1050398 (640x465)

こんなものに出遭います  猫P1050399 (640x460) 標識も 左安養寺右まんだら堂P1050401 (640x465)


ここを過ぎれば下り。里近くになると青面金剛像。庚申が行われていたことが窺がわれます。

青面金剛P1050402 (640x480)


ここを過ぎれば、JR横須賀線、名越踏切。そこを渡ると日蓮水と呼ばれる井戸があります。ここから鎌倉大町までは、ほとんど日蓮の事跡。小町から山内へかけてが、武家による臨済宗の諸寺といい対照を示しています。

           日蓮水P1050403 (469x640)


更に歩を進めると左手に、2月11日に行われる日蓮宗の荒行で知られる長勝寺を右に見て横須賀線の踏切を渡り、流れに沿って斜前に続く道へ入ります。そこに ⇊

中央に北斗尊星P1050406 (640x480)

北斗尊星とありますからこれは、道教による庚申が行われた場所であったことが窺がわれます。青面金剛も道教の影響する庚申だと思いましたが、主宰する指導者によって表現が違うということでしょうか。
確かにここは、村の外れです。


すぐに妙法寺です。平日は公開されておりません。
以前にお参りしましたが、苔寺というのにふさわしい石段があります。 ➔ 妙法寺案内P1050407 (640x475)


安養院は、浄土宗の寺院。 安養院案内P1050411 (640x480)

尼将軍と云われた北條雅子の法名が安養院で、雅子の供養のために建立されたお寺です。北條雅子の墓は寿福寺に在りますがここにもあります。

本堂の写真です。 ⇊

安養院ややアップP1050413 (640x479)


続いて、八雲神社に着きます。
略記は➔ 八雲神社縁起P1050415 (640x478) 拝殿 ➔ 八雲神社拝殿P1050417 (640x479)  
新羅三郎手玉石 ➔ 新羅三郎手玉石P1050416 (640x480) 庚申塔➔ 八雲神社にある庚申塔P1050419 (640x461)


つづいて、ぼたもち寺。ここの住職が最近起こした事件は、新聞の三面記事として紙面を賑わしましたね。

ぼたもち寺P1050420 (640x469)


ほどなく、比企谷(ひきがやつ)の妙本寺につきます。
源頼朝の乳母(めのと)の一人比企尼は、元武蔵の国比企郡の代官の妻だった人で頼朝が伊豆の国の蛭ヶ小島に流された後も、その後も頼朝とともに過ごしています。頼朝は、鎌倉に幕府を構えたときに比企尼に与えた土地が比企谷と呼ばれました。比企尼の甥が能員(よしかず)で後、養子となりました。

本堂

妙本寺P1050427 (640x480)

二天門 この奥に祖師堂があります。

妙本寺山門P1050428 (640x474)


総門を入るとすぐに左に行く道がありますがその先に蛇苦止堂があります。比企一族の悲しい物語が込められたお堂です。寺報の「妙本寺第70号」にその物語が載っておりますので全文を…

『妙本寺報第70号 今月の諸堂の紹介⑰蛇苦止堂
蛇苦止堂は比企谷妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)を祀るお堂です。
比企能員の娘、讃岐局が二代将軍頼家公の側室となり、一幡(いちまん)之君を授かり、将軍家の外戚岡係になった時から北条一族は比企一族を最大のライバルとして敵視し、ついに建仁三年九月二日、党首能員をはじめ、一族郎党は北条家の手にかかって討ち滅ぼされました。讃岐局、一幡之君もこの比企谷の地で火攻めに遣い、讃岐局は池(一説には井戸)に身を叙げ、一幡之君もまた六歳の幼さをもって焼死しました。妙本寺の境内にひっそりとたっ五輪の塔は一幡之君の着衣の袖を供養したものと伝えられています。一幡之君袖塚)
そして、この乱より五十年ほど後、、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。讃岐局の弟にあたる比能本は日蓮聖人に救いをボめ、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。
それ以未、今も毎月一日(正月は二日)に例祭をつとめ、信徒と共に法華経読誦唱題が続けられています。』 

この記事に関係する事柄を年表から抜いてみます。

・建久9年(1198)1幡(いちまん)誕生
正治2年(1200)異母弟公暁(くぎょう・こうぎょう)誕生
・建仁3年(1203)この事件、比企能員(ひきよしかず)の変
・翌年、二代将軍、北条頼家伊豆に幽閉され殺される(北条雅子が関与か)

そして、このあと源家にとって不幸な事件がが起こります。

・建保7年(1219)頼家の後を襲(つ)いだ三代将軍、実朝が公暁により鶴岡八幡宮で暗殺される

頼家亡き後、雅子の配慮により年若き公暁は、鶴岡八幡宮の別当に任じられていましたが、「父の仇!」と叫んで実朝を襲ったということで、その背後の黒幕の存在もささやかれている事件です。

源頼朝から続いてきた将軍職はその血筋が絶え、摂関家、宮家から迎えて北条家が実勢を握り執権のまま世の中を動かす時代となりました

その後、

年表によりますと日蓮が安房小湊から鎌倉へ出て辻説法を始めたのは、1254年です。5代執権北条時頼の時代です。

辻説法跡の碑
日蓮大士説法の地P1050430 (640x480)

日蓮上人辻説法地P1050429 (640x479)

1260年に「立正安国論」を時頼に送っています。

妙本寺は比企邸跡に建ち、蛇苦止堂の縁起に出てくる北條政村は、7代執権(1264年から1268)のことで、日蓮の影響がじわじわと浸透していることが類推されてきます。


鶴岡八幡宮の鳥居に並ぶ位置が日蓮辻説法跡です。前述しておりますが大町が庶民・日蓮ゆかりの地で小町~山内は禅の臨済宗と武家の地であることこれほどはっきり分かるところ、面白いですね。その境もはっきりと目に見えるように分かります。

ここまで来れば鎌倉駅はすぐ目の前です。

スポンサーサイト

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。