時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●旧東海道品川宿を歩く

まず、江戸切絵図

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1601年(慶長六年)、徳川家康により宿場・伝馬制度が制定されました。東海道は、いわゆる江戸の五街道の中でも、参勤交代や旅人、物売りなどの往来が多く、その第一の宿場町が品川宿。日本橋から二里(約八キロ)の場所に位置します。
元々は目黒川を境とした北品川本宿と南品川本宿の二宿でしたが後の享保七年、年間一万三千人の徒歩人足を出すことを条件に新宿が出来、上掲の絵図でも分かるように、徒歩新宿(かちしんしゅく)・北品川本宿・南品川本宿の三宿となっています。

この界隈は、桜や紅葉、潮干狩りなど、江戸の庶民たちの行楽地としても人気がありました。

南品川宿まで は、江戸の朱引内にはいっていますが、町奉行の支配のおよぶ墨引からははずれていました。

品川宿地内P1020844 (459x640)

「是従南 品川地内」とあり、「是従」は、「これより」と読みます。

そこには、この地を支配する、支配代官の名が書いてありました。

代官支配地P1020843 (465x640)

地内の標識。

道標・右品川宿P1020841 (640x480)

地内の標識をもう一つ。

土蔵河岸・右本宿P1060081 (640x480)

「徒歩新宿 土蔵相模跡」とあります。
品川宿は、東海道53次の一番目の宿。
旅籠(はたご)一軒に飯盛女(遊女)2名が許されていましたが、御府内からの客も多く、守られることは無かったようです。
その中でも土蔵相模は、品川宿で最も有名な飯売旅籠屋だつたと云われています。

歩行新宿2丁目(現在の北品川―丁目)にあり、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だつたので「土蔵相模」と呼ばれていたとか。文久2年(1862)品川御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件の首謀者、高杉晋作や久坂玄瑞らが謀議をこらしたもこの「相模屋」です。吉村昭の「桜田門外ノ変」にも出てきます。

一般には、落語の「品川心中」、「居残り佐平次」、「三枚起請」などを織り交ぜて作った映画・「幕末太陽伝」の舞台がこの土蔵相模として知られています。江戸吉原は「北国」とか、「北州」と呼ばれるのに対し、「南国」と呼ばれていたところです。

その規模は…

土蔵相模の間口、道標と奥の電信柱付近までP1060105 (640x471)

手前の標識からこちらに向かって歩いてくる二人、そこに青緑の看板が見えますがその建物までの間。
そこに行くと「土蔵相模跡」と解説の板が建っています。

土蔵相模跡のうしろ側は、品川の海。落語の「品川心中」の噺の心中場所になった所です。

品川浦は、嘗ては漁村。現在とは、様子が変わったいます。

変わった様子描き入れた絵図、次に示します。

土蔵相模字跡入り


目黒川は、北本宿と南本宿との境目の品川橋辺りから大きく曲って猟師町と描かれている方流れていましたが、そのまま海へ流れ込むように流路を変えました。

地先の「弁財天」とあるところまで埋め立てられました。

この川をいままで現在の呼び名、「目黒川」と書いてきましたが、江戸時代は、「こりとり川」といい、これは、目黒不動尊へのお参りのための水垢離(みずごり)の意の「垢離取川」と云ったようです。


品川浦船溜の現在の様子

品川浦船溜P1060084 (640x455)

品川浦船溜P1060085 (640x465)

絵図に描かれている「猟師町」は、現在の表記ならば「漁師町」でしょう。

ここは、南品川と地続きで、洲崎(すさき)(冽崎)とも呼ばれ、目黒川河口の砂洲(さす)(寄洲(よりす))にできた町です。
江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門(かがたきちざえもん)の姓をとって「利田新地(かがたしんち)」と呼ばれていました。ここに現在、利田神社があります。

利田神社は、「かがたじんじゃ」とよみます。
絵図では「弁財天」と書かれているところ、ここににあります。そこにあった洲崎弁天は、現在、利田神社でを祀っているということです。

利田神社鳥居

利田神社鳥居P1060088 (640x463)


拝殿と狛犬
利田神社拝殿P1060089 (640x473)
利田神社狛犬P1060090 (480x640)

「かがた」を名乗る酒店がありました。

利田神社の読み・かがた。P1060101 (640x479)


境内には、鯨塚があります。
寛政(かんせい)十年(1798年)5月に、品川沖に大鯨が迷い込み、地元の漁師によって浅瀬に追い込み捕らえたものです。捕獲された鯨は評判となり、浜御殿で11代将軍徳川家斉(いえなり)が上覧するほどでした。
その後、この鯨の骨を埋めて塚の上に碑を建てたのです。これが今も利田神社脇にある鯨塚(鯨碑)で、品川区の文化財に指定されています。

鯨塚

鯨塚アップ (640x478)

その碑文

鯨塚の由来碑P1060094 (473x640)

碑文の内容…鯨塚乃由来
此ノ鯨塚ハ寛政拾年(西暦一七九八年)五月壱日折柄ノ暴風雨二
モマレ乍ラ大鯨ガ品川ノ沖二這入り込ミ是ヲ見ツケタ猟師達ハ
舟ヲ出シテ遠巻ニシテ天王州二追イ込ミ遂二捕エタ此ノ事ガ
忽チ江戸二広ガリ見物客デ大賑イニ成り五月二十日二芝ノ浜御
殿(今ノ浜離宮公園)ノ沖二船デ引張ッテ行キ第十一代将軍家斉
公二御覧二入レタ此ノ鯨ノ背通り長サ九間一尺高サ六尺八寸
有ッタト言ウ鯨塚ニハ左ノ句ガ刻ンデアル
江戸に鳴る冥加やたかしなつ鯨
当時の俳人谷素外
昭和四十四年九月吉日
昭和大改修
東品川一三町会
鯨塚保存会

いままで見てきたとろは、おおよそ土蔵相模の裏といったところです。

もう一度、街道へ戻りましょう。戻る途中に気になる食べ物屋がありました。
看板造りの建物の外観と入口の佇まい。

連、看板造P1060104 (640x440)

連、入口P1060103 (640x479)

そこからはすぐに、街道の問答河岸と呼ばれているところにに出ます。土蔵相模の並びです。
云うまでもなく、すぐ海ですから河岸と呼ばれています。

問答河岸P1060078 (640x479)

三代将軍徳川家光が沢庵禅師の東海禅寺を訪ねた折、出迎えた沢庵禅師に

将軍家光が
「海近くして如何か是東海寺(遼海寺)」   ※海に近いのに遠いとは、これいかに?
との問いに 

沢庵和尚が
「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」      ※大軍を指揮しているのに小(しょう)と云うが如し
と切り返したいうのがその問答。

ここから南へ歩を進めると、一心寺と「こくぞうさん」と呼ばれる養願寺があります。
絵図から、寺社の部分を抜き出したみましょう。

寺町・トリミングIMG_20150809_0001 - コピー (469x640)

一心寺は、安政2年に伊井直弼が不動尊を本尊として開いたお寺。この絵図は同4年に発行されたものでまだ、記載されていません。場所は、上の絵図に⑧と記した所にあります。

一心寺・ (640x480)

一心寺は、品川の成田山としてその後発展していったようです。山門前に、「品川貸座敷中」の大きな石碑が残っております。お不動さんと貸座敷、持ちつ持たれつ云う関係?ということだったのでしょう。
貸座敷とは、「広辞苑」によれば、「女郎屋。遊女屋。公娼が妓楼の座敷を借りて営業する意で、明治以後この称がおこなわれた。」とあります。

品川貸し座敷中・一心寺P1020832 (640x472)

この絵図の番号の②が養願寺。コクゾウと添え書きがされています。
コクゾウは、虚空蔵さんのことです。

養願寺・虚空蔵菩薩P1020830 (640x473)

参道・虚空蔵菩薩大祭の幡P1020811 (640x463)

北馬場参道通りを行くといまは、「天王社」と書かれているところ、②とあるところがいまは、品川神社と呼ばれています。
昔は、北の天王さんと呼ばれていました。

③とあるところが沢庵禅師のいた東海寺。明治維新で廃寺となりましたが、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っています。

東海寺、この奥が前の2枚P1060123 (468x640)

その近くに旧荏原郡役所跡があります。その標識。

荏原郡郡役所跡P1060124 (640x480)

北の天王さんに対して南の天王さんと呼ばれていたのは、いまの荏原神社。

絵図では⑦、天王社とあります。

川が右側に流れていますが、この川の流れを変えたときに、一緒に天王社の左へ流れを変えました。

これが、天王社へ行くために出来たのが鎮守橋です。

荏原神社へ鎮守橋P1060139 (640x480)

天王さんとは、誰 ? 

牛頭天王(ごずてんのう)のことです。
品川の海辺に「天王洲アイル」などという再開発されたところがありますが、名前はここからきています。

余計なことですが、天王洲辺りの現在の町名は、東品川。北品川・南品川とこの三つが品川の現在の町名のようです。


本道に戻ると品川橋があります。ここが北品川本宿です。徒歩新宿との境目は、絵図で「同三丁目」、「同二丁目」と文字が書かれていますが、上向きと下向きになっているとろがあります。そこがその場所。養願寺辺りが境目でしょうか。

本陣は、品川橋の近く。現在は、聖跡公園・本陣跡と呼ばれています。

品川橋を渡ると南品川本宿です。

⑥、海徳寺です。
大永2年(1522年)、松陽院日増による創立。
江戸時代、庶民の寺として隆盛を誇つたといわれる。寺には檀徒に配布した護符を刷るために使つた版木が20数枚残されており、当時の民間信仰の様相を伝える貴重な資料として品川区の有形民俗文化財に指定されている。

明治39年(1906年)渡英のため品川湾に碇泊していた軍艦千歳へ渡る通船が突風により転覆して死亡した千歳の乗組員など83人を供養するため、大正8年(1919年)後の千歳艦長である海軍大将が揮毫した「軍艦千歳殉難者之碑」があります。

海徳寺・軍艦千歳遭難の碑P1060135 (480x640)

現在では、若き日の王貞治選手と野球を夢見て夭折した少年の物語が語り継がれる「ホームラン地蔵」のある寺として知られているようです。

ホームラン地蔵・和夫地蔵P1060137 (454x640)

もと東海寺の塔頭として慶安3年(1650年)に創建されたのが清光院(④)です。

ここは、譜代大名で、中津(大分県)藩主であった奥平家の廟所として知られています。瓦積の土塀に囲まれた598平方メートルの墓域で、慶長19年(1614)に没した二代からの墓石88基があります。

清光院、中津藩奥平家墓所P1060128 (640x478)

奥平家墓域P1060130 (640x479)

奥平家墓域の練塀P1060131 (640x457)


⑤海蔵寺は、品川の投込み寺と云われている寺です。


品川の閻魔さま、長徳寺。この絵図の範囲外なです。

寺の入口に名物「閻魔イナリ」を売る店があります。一味入りのいなりずしのようです。

門前、一味入り閻魔いなりP1060152 (640x478)

閻魔堂など特に珍しいものではないので写真を見せるほどではありません。

ここまで来ると京急線の「青物横丁駅」はすぐです。

江戸六地蔵のある品川寺(ほんせんじ)や千体荒神堂など、魅力あるところがありますが今回は寄らずにここまでとします。

以前、この辺りをたっぷり紹介しています。それはここクリック。 品川県についても。

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