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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●新選組流山の陣へ…五兵衛新田

流山に行くと新撰組流山本陣の地となったという場所があります。

その説明には、五兵衛新田を逃れてこの地流山に来たということが書いてあります。

ところで、五兵衛新田ですが、東京メトロ千代田線綾瀬駅の近くにあります。北千住から荒川と綾瀬川を越えると綾瀬駅。西口を降りて電車の進行方向の左側に行くと右手奥に一つ目のゆかりの地があります。流山に向かう前に滞在したお寺です。

リサイズ 稲荷山観音院P1070122

リサイズ稲荷山観音院文書P1070165

見にくいので文字起こしをしてみます。


稲荷山蓮華院観音寺

真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で十七世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶應四年(1868)三月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新選組が流山(千葉県)に撤退したというエピソードを持つ。
 開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に大師堂や鐘楼があるほか、五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
 本尊は十一面観音菩薩で江戸時代初期の作。境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八か所五十一番.荒綾(こうりょう)八十八か所七十番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に漢文四年(1664)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形文化財となっている。
 平成八年三月
 足立区教育委員会

次に、金子家へ向かいます。

この付近には旧家が散見されます。

リサイズ付近にある旧家P1070153

金子家とは違います。

少し行くと橋がみえてきます。

リサイズ 橋P1070161

五兵衛新橋とその奥に見えるのが、五兵衛橋です。何やら掲示がありますので近寄りましょう。

リサイズ五兵衛橋P1070154


この下をくぐるとすぐ右手に金子家があります。

リサイズ金子家P1070146

りさいず金子家文書P1070159

これも文字起こしをしてみました。

 金子家文書(新撰組関係資料二十一点)
幕末の動乱期、当金子家に新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が半月にわたって滞在していた。
当家には覚書、願書、書簡、それに鎮撫隊の動向書、風聞書など、その間の新撰組の動きを知る貴重な資料が多数保存されている。
これらの文書から見ると、新撰組の当地滞在期間は、慶応四年(一八六八)三月十三日から四月一日まで二十日間。人数は当初四十八人から次第に増加して、終りの頃には二百三十余人達し、金子家ほか近くの観音寺に分宿していた。
主な資料をあげると、「乍恐以書付奉申上候」=五兵衛新田の年寄源右衛門が、金子家に近藤勇達が宿泊していることを代官所に届け出たものである。
「おぼへ」=当主健十郎が認めた賄方の記録で、滞在期間の動向を知る貴重な資料である。
書簡=代官佐々井半十郎より医師松本良順宛と近藤勇宛のもの等がある。
これらの資料は足立区登録有形文化財となっている。
また、当家の祖先であり「五兵衛新田」の開拓者の一人である金子五兵衛の墓(足立区登録有形文化財)
は、観音寺に建立されている。
平成十二年十一月
足立区教育委員会

文書は、見ることはできず、また両所とも一般公開されていませんので物足りませんが足取りの拠点が此処ということ。

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