時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●川柳に、西の内をくんなはいと泣いてくる…新吉原の投げ込み寺と岡場所と

歌舞伎の正月公演で歌舞伎18番の「助六所縁の江戸桜」がかかるのは、曽我狂言だから。
吉原(正しくは新吉原)が舞台です。花川戸助六の恋人、三浦屋の遊女揚巻に横恋慕する髭の意休に喧嘩を仕掛けて探している仇である証拠の刀を手に入れるため…成田屋・市川團十郎が大活躍する人気狂言です。
吉原は、幕府公認の遊所ですが、それ以外の所は、岡場所といわれ、幕府の目を気にしながら、遊女は、「飯炊き女」といい、お目零しを受けての営業。どちらでも働く女は、売られていく女がいて成り立っていたのでしょう。


古川柳に
西の内をくんなはいと泣いてくる
と云うのがあるそうで、これは、売られていく娘が身売りの年季証文(身売奉公人請状)を書くための紙を買いに来た娘を詠んだものだと云います。通常の奉公人請状や田畑家屋敷の売買証文では、普通美濃紙が使われていたのでしょうが、身売りの証文はもっと厚手の上質紙、西の内に書いたということで、極めて重大な決心をしたということ。


昔、就職する時、提出する履歴書を書くため美濃紙を買ってきて筆を使って書きました。薄い紙ですが弾力があり、普通の書道の時に使う紙に比べて随分高級な感じでしたが、そんな時代を過ごしてきた者にとっては、この話し良く分かります。西の内は、建前の時などに麻と一緒に使ったりしてましたので、特別な紙だという印象を持っています。茨城県那珂郡山方町舟生、現在の常陸太田市で作られる紙のことです。

り・650新吉原総慰霊塔P1000441
華やかな吉原で過ごしの遊女たちの最期は哀れ、現在の三ノ輪の淨閑寺へ投げ込まれたということで、遊女の墓がありました。50数年前には、新吉原の供養塔のほかに、墓があったと思ったのですが、最近、淨閑寺へ行きましたが、供養塔は残っていますが、墓は無くなっているようです。探し方が悪いのかも知れませんが…

り・800成覚寺・遊女の墓と説明

今の新宿が内藤新宿と云われていた頃、ここにも岡場所があり、ここの遊女は、成覚寺と太宗寺に葬られていたようで、その供養の碑が成覚寺に残っています。この寺は浄土宗で、場所は新宿2丁目、靖国通りに面した所にあります。組合が合同で作ったもので、碑には、「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」とあります。うっかり遊君などと云ったら大変、内内では「こども」と云っていたようです。品川宿では海蔵寺、川崎宿では、宗三寺なども投げ込寺といわれる所とか。

もう数年前になりますが、神奈川県藤沢に、一遍上人で知られる、遊行寺がありますが、ここを訪ねたことがあります。遊行寺の近くにある真宗永勝寺に、「飯盛女の墓」がありました。小松源蔵と云う雇い主の代表が中心となり、ひとりひとりが手厚く葬られていると事で、その供養は現代にまでも続くと云う事で、その説明をしてくれた人の話に添った内容が、webに見つかりました。「…因みにその小松屋は明治維新に、旅籠屋を廃業して、下駄屋を開業。小松屋の屋号を改め10数年前に喫茶店に転業した。しかし昨年廃業し、事実上江戸初期から続いた自営業に終止符を打った。」と結ばれています。
稀有な例でしょう。
この辺のこと、詳しくは、「藤澤宿今に伝える=飯もり女の墓」を検索してください。



江戸深川にも岡場所がありましたが、これとは別に芸者衆も暮して居りました。気風のよいことが評判の「深川芸者」「辰巳芸者」といわれ、男名前を名乗り、女だてらに、羽織を着たりしていました。その頃は女が羽織を着る習慣がなかった時代ですから、「羽織芸者」とも云われていましたが、これは、遊女と勘違いされて、幕府に目をつけられないための工夫だったようで、それがこの地独自のウリになったと云う訳です。


「極楽トンボの俳句で遊ぼう」を覗いてみよう …左側にあるリンクから行かれます

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