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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●戦争遺跡、旧陸軍登戸研究所跡地。風船爆弾・帝銀事件…明治大学

昭和12年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され電波に関する実験研究が行われ、その後、
秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充されたのが通称で云われれるところの「陸軍登戸研究所」。

現在その跡地は、明治大学生田校舎があり、2010年3月「平和教育 登戸研究所資料館」が開設されています。
山田 朗館長が第1回企画展記念講演(2011年1月8日改訂版)のレジメには、

戦争には必ず付随するが、歴史に記録されない、戦時に限らず平時においても密かに行われている
四つの要素
防諜
諜報
謀略
宣伝

秘密戦とはこれら裏側の戦争、水面下の戦争。

旧陸軍登戸研究所では、これらに関わる兵器・資材の研究・開発を行っていたところと云われています。

ここで何が行われていたか

電波兵器(く号兵器)…陸軍の電波兵器の本命(怪力光線・怪力電波)※くわいりき光線から「く号兵器}
特殊無線機…スパイ・残置工作員用
ふ号兵器(風船爆弾)…米国本土のかく乱を狙う諜報兵器
対人用毒物・薬物
スパイ用兵器・憲兵資材
対植物兵器…敵国の穀物生産への打撃
贋札(偽札)の製造…経済謀略
偽パスポート
これらの研究品の製造・補給・使用指導

などという。

日本で唯一の秘密戦に関する資料館で、旧日本軍の研究施設(36号棟)そのまま保存・活用した唯一の事例で、一般市民・高校生が、知られざる歴史、戦争の暗部を解明するきっかけを作ったのがこの資料館。ですから名称が
 
   明治大学平和教育登戸研究所資料館

この資料館は、もと36号棟といわれる建物で、生物化学兵器の開発、風船爆弾に搭載する牛疫ウイルスの研究や謀略用のカメラ、秘密インキの開発をしていたところと云います。

旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会が作成した見学のしおりや、参考文献などもでていますがこの事実をどう伝えるかには、少しづつニュアンスが異なりますが、聞いたり見たものをのものを冷静に…

毎週水曜から土曜日に開館で入場は無料。その他開館日は用談されれば日曜日も可能ようです。
ここへは小田急線、向ケ丘遊園駅からバスが正門前まで。

生田駅から歩くと、その立地。選ばれたその訳がわかるでしょう。

り650明治大学生田校舎の登校門P1010460


この階段の下に入口がありますが、そこには  マーク8り明治大学の生田校舎P10104 61

「保存を求める市民の会」が保存を求めていた建物の一つ、5号棟は、
 6り取り壊された建物の写真P1010436 り6505号棟最後の002
2011年2月20日最後の公開見学会が行われて取り壊されいます。
ここは、偽札を印刷していた工場であったと云われています。昭和12年に日中戦争が全面化すると、その作戦の一つとして偽札をばらまくことでインフレを起こし中国経済を混乱させようと云う目的です。年を追うごとに本格化し、敗戦まで続けられたといいます。写真は5号棟で、それを伝える「資料館だより」を。取り壊した跡地には、戦争遺跡が存在したことを示すモニュメント等を設置するなど…と、書かれています。

この研究所の役割はますます重要になり、拡充され、成果を揚げていたのでしょう。昭和18年には、この研究所の成果に対して陸軍から表彰されています。それを伝える新聞。り650受賞を知らせる新聞記事P1010456 表彰状には、その発明品が何々と書かれていないところが、いかにも秘密組織であることをうかがわせます。り650陸軍技術有功章賞状P1010455

※館内で撮影した資料は、いずれも、使用目的を明らかにして許可を得ているものですので、以後の写真を含めて流用はお断りします。

このときの賞金を元にして、こしらえたものが「弥心神社」と「動物慰霊塔」だそうで、大学構内にあります。現在は、「弥心神社」は、ご祭神をかえて、「生田神社」に。「動物慰霊塔」は、大学の行事に。そのままの位置にあって現在、使われているとのことです。写真等は、
  
旧陸軍「登戸研究所」、見学 をクリックで見られます。

「資料館」内には、当時、謀略用のカメラの研究をしていたとことが窺われ、頷くことのできる部屋があります。り650暗室として使われていた部屋P1010458 入口の構造や、写真に写っているランプなどから写真用の「暗室」だったことが分かります。人物が写っていますがこれはですプレィです。

生物兵器の研究開発をしていたところですから当時を思わせるものは残っていませんが、風船爆弾が大きく扱われています。これに乗せる牛疫ウイルスをここで研究していたようですが実際には、焼夷弾を乗せて米国本土へ飛ばしたといます。そんな子供だましでと云う感じですが、その大きさを知るとどうでしょうか?り650風船爆弾の写真・展示物P1010444

展示されている写真です。そして、縮尺された模型が…り650風船爆弾模型の説明P1010446
模型と云っても全体の様子は、治まりきれないので…り650風船爆弾の風船部分 り650風船爆弾模型全体 
                         り650文字入りバラストと人物・風船爆弾

和紙を何枚もこんにゃく糊で貼り合わせてつくったものに、水素ガスを6分目ほど入れ、上空に上がって気圧が上がっても破裂しないようにする工夫。風船が落下しそうになるとバラストを落とすなどして、本体を軽くして浮上するなどの仕掛けを組み込み、風に乗せて米国本土へ300数十個が…。爆撃よりも、撹乱を目的としたようで、焼夷弾で火事になり何人かがケガをしたと云う記録あるとか。

30数十年前、埼玉県の小川町の紙すき場の見学をしたことがあります。その時、あの風船爆弾の紙はここで漉いたものと云う事を聞きました。あの紙の貼り合わせに駆り出されっと云う人もいましたが、当時は何に使うものかは全く知らされてはおらず、後日、風船爆弾だと知ったということです。秘密が守られていたという事なのでしょう。
この研究所のことは、外部の人には何をしているところか殆ど知る人はいなかったと云われています。近隣人たちの働く場所として身入りよい職場だったと云いますが、最終的に何に使う物を作っているかは知らされいなかったようですし、退職するときは固く口止めされていたといいます。

り650雑書綴り これは、「雑書綴り」として、展示されいたものです。女子事務員が自分の手控え、あるいはタイプライターの練習のため残ったもので、秘密事項に相当するものは含まれていないとか。

昭和20年8月15日、日本降伏 登戸研究所では陸軍中央からの命令により証拠の隠滅が図られる
同、8月15日以降  登戸研究所、長野県で解散式を行う
同、10月 米軍、登戸研究所施設の接収を行う
昭和21年5月 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、登戸研究所関係者は訴追されず
昭和25年 明治大学が登戸研究所の跡地を購入

これは、前記のレジメに記載されている年表です。「保存を求める会」の見学のしおりには、明治大学が購入する前のことが書かれていて(以下は、全文ではなく一部省略しています)

①偽造紙幣の研究・製造をしていた場所は、慶應大学が借用した
②生物兵器の研究に使用していたたてものは、北里研究所が借用した
③用紙の製造工場としていた場所は、巴川製紙が借用した
④第4科が使用していた場所は、川崎市に返還される
⑤明治大学は、上記①、②、③に相当する部分を国から購入した。約三万坪
とあります。

8月15日、山の上の研究所からいつ果てるともなく黒い煙が上がっていたという話をする人達がいましたがなんのことなのか分からなかったと云います。

昭和23年、東京の帝国銀行椎名町支店で、行員らが青酸化合物を飲まされ、12人が死亡、4人が重体となり、現金などが奪われた事件があります。世に云う帝銀事件ですが、この時使われた青酸化合物が、遅効性毒薬の青酸ニトリルでこの研究所で開発されたもの。捜査が元研究者におよび、「旧登戸研究所」が戦後になった人の話題に上ったりするようになった?


秘密に包まれていたこの「登戸研究所」の関係者からの聞き書きや残っていた資料などから研究が進み著作が出版されているようですが、跡地を入手してから、半世紀以上経ってますが、このようなな戦争遺跡を、学生たちにも公開したことにもなり、明治大学の「平和教育研究 登戸研究所資料館」がその重要な役割を買って出てきたと云う事になるのでしょう。

一般に公開されている施設ですので、一度見学を。ある一面だけを捉えての軽々の判断できぬものであることを心に決めながら。

追記 2011・11・30読売新聞の記事

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