時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

●狂言の「二九十八」の京都・室町、西陣界隈に足利政権の故地をめぐる

国立能楽堂の平成23年11月普及公演は開場45周年記念講演で、狂言・大蔵流の「二九十八」と能・観世流の「殺生石(白頭)」でした。

狂言「二九十八」は、妻乞のはなしです。舞台は室町です。
清水寺の観世音に妻乞のため参詣にきた男に、「西門の一の階(きざはし)に立った女を妻にせよ」とのお告げがくだされます。

こうして神仏に祈って妻を得ることを「申し妻」といい、狂言にはほかにも「吹取」、「伊文字」などがあります。また、西宮神社を舞台にしたものに「釣女」などもあり、たいていは見目美しい女性と出会います。

この狂言のあらすじを、同公演の案内から流用し紹介しましょう。

そのお告げ通り、衣を被(かず)いた女が門前に立っていて、男は大喜びです。男は女に「御夢想のお妻様か」と尋ねると、女は、
 つまもなきわが身ひとつの狭衣(さごろも)に袖をかたしく独り寝ぞする
と歌で返答をします。※筆者註・この歌の「つまもなき」の「つま」は、「夫」の意。妻・夫いずれも「つま」
次に男が女に住まいを尋ねると、女は、
 我が宿は春の日奈良の町の内風の当たらぬ里と尋ねよ
と返します。男は女の住まいが春日町で、さらに「風のあたらぬ」から外気を遮断し麹などを育成する「室」、つまり室町に住んでいると類推し、
 春日なる里とは聞けど室町の角よりしてはいくつめの家
と尋ねると、女は、
 にく
と答えて姿を消してしまいます。
慌てて追いかけた男は、2×9=18軒目と推理したとおりの場所で女を見つけました。男は、これぞ運命とばかりに結婚を口にしますが…

歌にある「春日」は大体現在の丸太町通りで東西の通り、「室町」は南北の通りです。春日通りと室町の通りと交差あする角からいくつめの家かと尋ねたわけです。

り・花の御所・室町通、京阪沿線ウォーキングまっぷ (492x640)

この話、現在の地図で確認してみましょう。京阪線ウォーキングまっぷが便利なので流用していますが、室町、西陣の主なところが分かりますね。

つづいて、更に、上の文章の流用を続けます。
女が住む室町は、京都のなかでも富裕町人が多く住んだ場所です。永和4年(1378)に足利義満が「花の御所」を開いてから、この地の開発が進みました。室町から出される祇園会の山鉾が他よりも多く造られたり、応仁の乱の終わった翌年には室町の後援によって観世太夫による勧進猿楽が催されたりと、室町は経済力の強い人物によって支えられていました。男が女の返答で喜んだのは、歌が詠め、計算ができる教養をもった女性であるとともに、お金持ちの令嬢との縁に舞い上がったからかもしれません。
とはいえ、観世音に導かれた運命の相手が、自分の理想の人とは限らないようです…以下略(引用終わり)

鎌倉時代から始まったという能楽(猿楽)は、殆ど即興のものであったものが、内容が固定してくるのは足利三代将軍義満のころで義満が積極的に勧めたからだと言います。現行の能や狂言は、室町時代にその源にあると言われており、この狂言などもその一つではないでしょうか。後で触れますが、このあたりには、能の「草紙洗い小町」の故地や能「羅生門」の鬼退治の舞台となる「戻り橋」が残っているなど興味深い土地柄です。

足利幕府という呼称が、この室町小路の名前からきているというのもおどろきです。
もともとは下総の足利を本拠地としていた足利氏です。鎌倉幕府崩壊後、北條氏との戦いに勝って足利尊氏が、光明天皇を擁立して征夷大将軍となり、京都に幕府を開いたのが足利幕府(1338)。その結果、天皇が二人となる南北朝時代と呼ばれる時代を迎えます。朝廷を守るための軍費調達のため、半済(はんぜい)の制度が始まり土地の権利が折半、のちにはなし崩しに幕府が握るようになりました。
三代将軍義満(1368~1394)は、続いている南北朝と云う内乱を統一し、幕府の全盛期を作ります。室町の屋敷は「花の御所」と呼ばれ、北山に山荘を営み、金閣寺を造り、後には相国寺を開山します。残っている義満の肖像画には、天皇と同じように厚畳(あつじょう)の縁(ふち)には、繧繝(うんげん)文様が描かれていることでも、その権勢は明らかです。天皇も義満の手の内にあったことが窺がわれます。
「天子北面せず」ということが当時の立ち位置でした。これは天子は北に居て南を統(す)べるということです。
上の地図で「花の御所」、「相国寺」の位置から云えば、御所をにらむ位置です。

り・花の御所跡地の碑・大聖寺門内P1020097 (640x480)


その「花の御所」は、現在、大聖寺という門跡寺院の境内に、石としてその存在を遺しているにすぎません。
応仁の乱は、応仁3年(1467~77)東軍細川勝元、西軍山名宗全がそれぞれ諸大名を引きいれて京都を中心に対抗した大乱で京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地に落ち、社会・文化を含めて大きな時代の画期的な出来事でした。今まであった建物や産業は灰燼に帰したという事で以後、戦国時代と呼ばれ、織田信長(1534~1582)、豊臣秀吉(1537~1598)の時代へと移ります。

「西陣」と云うのは、西軍の山名宗全が陣を敷いたところから。もっとも激しい戦いであったところが「百々橋」だといいます。り・百々橋址の案内・応仁の乱の激戦地P1020132 (640x480)

この地は、平安時代以降宮廷用の衣服が生産され、中世には絹工人の同業組合大舎人座(おおとねりざ)が結成され、機業地として発展していましたが、応仁の乱で全滅してしまいます。豊臣秀吉によって復活され現在に至るまで機業地として知られています。

り・手描きの京友禅・電熱器で乾かしながら次の色を刺しているP1020229 (640x480)  手描き京友禅

一つ一つの時代考証は抜きにして、この地で目に触れたものを撮影した写真があり、その一部を紹介します。位置関係は、上の地図を参照しながら…

光照院門跡 り・光照院門跡P1020118 (640x468)  持明院・仙洞御所 り・持明院仙洞御所跡の碑P1020117 (640x480) 
宝鏡寺門跡・百々御所 り・宝鏡寺門跡・百々御所の碑P1020145 (640x480) 薄雲御所 り・薄雲御所P1020146 (640x463)

 
千利休は、織田信長、豊臣秀吉の茶道頭でしたが、その孫千宗旦は、元伯、不審庵、今日庵、、咄々庵などと号しておりました。子供を分家させ、表千家、裏千家、武者小路千家の基礎を築きました。

表千家不審庵と自宅 り・表千家不審庵P1020133 (640x463)  り・表千家P1020126 (640x480)
表屋敷を継承する千宗旦の第3子、江岑千宗左の家系とする。

裏千家今日庵と自宅 り・裏千家・今日庵P1020136 (640x473)  り・裏千家P1020130 (640x465)
本家裏の隠居屋敷を継承したのが千宗旦第4子、仙叟千宗室の家系とする。

武者小路家官休庵 り・武者小路千家官休庵P1020196 (640x465) り・新武者小路P1020199 (640x480)
千宗旦の第2子の一翁宗守は先妻の子で一時父の元を離れるが、千家の兄弟の勧めで千家に復し、その所在地名から武者小路千家通称されています。


楽吉左衛門宅 り・御ちゃわん屋の暖簾P1020209 (640x470) 楽茶碗の「楽美術館」が併設されています。


菓子・俵屋吉冨は、烏丸通から室町通に及ぶ奥深い造りで、いわゆる町家作りです。店先は、二つの通りに面し、真ん中は工場になっています。この写真は、室町通の店先です。 り・俵屋吉富P1020110 (640x476) 


能、歌舞伎など、渡辺の綱で知られる「一条戻り橋」。堀川に架かる一本の橋が一条戻り橋です。この名の由来は、平安中期の漢学者三善清行が亡くなった時、その葬列がこの橋を通った時、父の訃報に修業先の熊野から急いで帰ってきた清行の息子浄蔵が棺桶にすがって祈ったところ、にわかに空がかき曇り、雷鳴の轟きに柩の蓋が開き父清行が一時生き返ったといわれています。一説にはその後七日間生きていたとも。

組合せ・り・一条戻橋・清明神社にP1020225 (640x468)

この橋は、死者を生き返らせるといことでこの橋の名は、いろいろの伝説を生んでいます。
また、芸能関係では、能「羅生門」やこの話を基に河竹黙阿弥のつくった歌舞伎、「戻り橋恋の角文字」がとくに有名です。渡辺綱がこの橋で鬼女の腕を切り落とすという話でこの橋が出てきます。


能の「草紙洗い小町」は、小野小町が歌会に用意した短冊に、大伴の黒主が手を加え当日、盗作として追求をしようとしますが、気付いた小町が、その短冊を水で洗うと墨が溶けて黒主のたくらみを防ぐ。というあらすじです。その墨を洗ったところと云うのが、草紙洗いの水です。その場所の石碑があります。→り・小野小町道・小町草紙洗い水P1020202 (640x460)
この辺に水があったのでしょうが、今は見えません。

現在、小川と云う地名がのこっていますが、この辺りにそれを思わせる場所があります。
小川の名残り・建物と建物との間P1020182   り・報恩寺前の小川・橋のみ残るP1020177 (640x470) り・本法寺前の小川・橋のみ遺るP1020140 (640x472)


日蓮宗の道場・妙顕寺や長谷川等伯の大涅槃図のある本法寺があります。本法寺は秀吉の所縁の寺でまた、本阿弥家の菩提寺で枯山水の巴の庭があります。> 
り・石で日、蓮池と合わせ日蓮P1020164 (640x480) 左に細長い○に横棒を引き、これで日。右側の池が蓮池になっていて、日蓮。水を一部取り入れた枯山水の庭です。 
石組の部分 り・巴の庭P1020160 (640x480)

妙顕寺  り・妙顕寺山門P1020122 (640x480) (2)


報恩寺の鐘とそのいわれ り・報恩寺の鐘P1020179 (640x471) り・報恩寺の鐘解説P1020180 (640x480) (1)


白峯神宮は、崇徳天皇、淳仁天皇を祭神です。崇徳天皇は保元の乱に破れ、讃岐に流されますが、そののち、御霊となりました。明治に入り、明治天皇によりこの地に創建されました。
元蹴鞠の宗家公家・飛鳥井家の屋敷の跡地に建っていて今、サッカーをはじめ球技、スポーツ一般の守護神として人を集めています。 り・白峰神社P1020193 (640x458)

以前は、機織りのとが聞こえていたそうですが、今はその音は聞こえませんでしたが、織物関係のお店が目につきました。そのいくつかを…

 り・京ごふく店P1020135 (640x473)  り・西陣・河村つづれP1020181 (640x480)  り・箔屋さんP1020174 (640x473) り・西陣の帯屋P1020115 (640x472) (1)
     


ざっとこの地の歴史を概観してきました。  

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。