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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●京都市内を歩いていれば神仏

京都市内を歩いていれば、どこでも出会うものがあります。

先般訪れた京都で出会った神仏(かみほとけ)。

●1、四条通りで、八坂神社のお旅所と冠者殿社、神田神宮(将門神社)
●2、新京極で、誓願寺と蛸薬師、寅薬師
●3、西陣で、辻神さんといけず石

それでは、●四条通りの冠者殿社

文字入・り・冠者殿社P1020237 (640x471) (1)
八坂神社お旅所の隣にあるのが冠者殿社で八坂神社の境外末社。御祭神は八坂神社と同じですがここには荒魂(あらみたま)が祀られていると言います。八坂神社の御祭神はスサノオノミコトです。
り・冠者殿社P1020238 (443x640) ご由緒はここに書かれています。


7月、八坂神社の祇園祭では山鉾巡行が行われます。そして17日から24日まで神幸祭が行われます。本当はこれが祇園さんのお祭りで、17日に三基の御神輿がこのお旅所にお出ましになり24日の還幸祭までここにとどまります。花街の舞妓、芸妓が鴨川を渡り、願いを込め無言で七日七夜神輿前に詣でると願いがかなうという言い伝えがあるそうです。

現在では冠者殿社はスサノオノミコトとされていますが、古くは、一つに悪王子とも云い御神体は日の神とも、土佐坊昌俊とも云われています。

頼朝から命を受けた土佐坊は、1185年(文治元年)六条堀川に滞在している義経に夜襲をかけるという世にいう「堀川の夜討」。土佐坊は、自分は討手ではないと誓文をしたためていながらこれを実行して失敗。誓文を保護にしたことを後悔したことからこれを祀って誓文払いの神にしたのだとも。

誓文払いとは、
近世、陰暦10月20日に京都で商人、遊女などが四条の官者殿(冠者殿)に参詣し、日頃商売上の駆け引きにうそをついた罪を払い、神罰の放免を乞う行事。今でもこの日の前後、京阪の商店街は特に安値の売り出しをする。
(広辞苑)と。

こんな新聞の記事がありました。  日本のバーゲン・冠者殿社

このお旅所前に立った時、あれ、ここには前に来たことがあるな、と思いました。既視観(デジャヴュ)とうものですね。


●神田神宮(将門神社)

六年前に京都にも将門神社があるとの云う話を聞き、場所を探していましたがなかなか分からず、ようやく分かりました。それから六年が経ち四条通りに来た事をチャンスに歩いてみようと思いました。
もともと京都の人たちにとって将門は尊敬に値する人物ではなく、朝敵として首がさらされた人物、下手に関われば自分もおとがめを受けかねないと思っていたのかもしれません。事実、将門は恨みはたさで居るものかと江戸まで目を見開いたまま首が飛んで行ったとの伝説があり、着いたところが東京大手町。そこにその時の首が祀られ、「将門首塚」と呼ばれているる場所があります。
六年前に宗教学者の山折哲雄氏の講演で、比叡山の千日回峯行の際、この京都市内にある将門神社に向かった鎮護の誠をしているとのことを聞いたことがきっかけで、場所探しが始まったのですが、その事が現実になろうとしていると云えば大げさですが…

分かっていることは西洞院と新町の間に在り、四条から綾小路まで南北につなぐ膏薬図子と呼ばれる細い路地にあり、民家の玄関横に組み込まれたごく小さな社だということ。そして、「史跡 神田神宮 天慶年間平将門ノ首ヲ晒しタル所也」とある、とのことで、写真では、自動販売機を思わせる厚さと大きさのものがそれとのこと。

今回、以上の経緯の中で、この場所の確認目的で、四条大橋から当地へ向かって歩いたのですが、念のため橋詰にあった交番へ。
大きな地図を広げてその場所は、この道をずっと行けばよろしいのですが、「神田神宮」は地図に記されていないので、通りの名前を確認しながら行けば、行きつくでしょうとのこと。
その通りすがりに在ったのが、前述した「冠者殿社」でした。
案ずることもなく、目的地がすぐにわかりました。

り・四条新町通と西洞院通の間が膏薬図子P1020255 (640x479)

ここがその入口で肉眼では、幟旗が何本も立っていました。写真で明かりがついているところが目的地です。

り・元あった所・旗の右オレンジ色のところP1020247 (640x479)

民家の中に、移転して社も造られて居りました。その様子は ⇊

り・将門塚P1020244 (640x473)   り・碑の表に将門阿弥陀仏・徳治2年 (459x640)   り・屋内へ移転した神田明神社P1020246 (640x469)
2010年2月に保存会により移転が完了したのことでちょっと拍子抜けがしました。さらに、周りの様子 ⇊
り・膏薬図子P1020249 (640x480)   り・神田明神・将門塚P1020243 (640x468)   り・神田明神のある膏薬図子P1020248 (640x478)

膏薬図子は、空也図子の意のようで、空也上人が怨霊を鎮め怨霊を祀ったところからと…それにしても京都の人人には、将門のような罪人など祀られている筈はないと思っている人が多いようです。また、図子とは、小路と小路ををつなぐような狭い道のことのようです。

●新京極に、誓願寺・寅薬師・蛸薬師

いいかげんに場所もあまり確認せずに予約しておいたホテルを探しているうちに行きついたところが新京極。実はここは昭和25年3月修学旅行で立ち寄ったところ。小学校の卒業式を終えてからという今では考えられない日程ですが、奈良京都を訪ねる修学旅行でしたが後に奈良京都が身近になったきっかけだったのかもしれません。
昔と変わらず、修学旅行生らしい人たちの往来があり、覚えていたイメージとそう変わらず、記憶が繋がったようです。本当は大変な変化があるはずなのに。
冠者殿社、もしかしたらこの時その前を通ったのかな?と思ったりしていますが、はっきりとした記憶はありません。

探すホテルは、そこにありました。能で親しくなっている「誓願寺」があり、その傍に。え、誓願寺ってここにあったのと云う感じです。歌舞の菩薩となった和泉式部が主人公です。

り・誓願寺P1020091 (640x474)

能の「誓願寺」の前シテは、後シテは和泉式部の霊です。
諸国に念仏を広める一遍上人は、熊野で神のお告げを受けて都へ上り、誓願寺で説法をしつつお札を授けています。夜になり、女は、上人に誓願寺と書いたこの寺の額を取り除け、上人自筆の六字の名号を額に帰るよう勧めます。これが本尊阿弥陀如来のお告げだという女人は、自ら和泉式部の化身だと明かしその墓であるという石塔の陰に光とともに消えていきます。
上人が額を掛け替えると虚空にすばらしい香りが満ち花が降り音楽が響きます。奇跡を目の当たりにした人々の前に、極楽の歌舞の菩薩となった和泉式部の精魂が現れ、誓願寺の由緒や阿弥陀如来の広大無辺の慈悲を説いて舞を舞います。

式部の墓が、誓願寺からわずかな距離と所に在りました。

り・和泉式部塔前P1020095 (640x474)

案内板があります。⇒ り・和泉式部墓の解説P1020096 (640x472)  和泉式部誠心院専意法尼の墓所とあり詳しい解説が読めます。

この墓所に並んで、蛸薬師、寅薬師があります。新京極とは、この三つ⇊ 
り・蛸薬師P1020093 (640x480)   り・寅薬師P1020094 (640x480)   り・新京極案内P1020092 (640x480)


●あるいて行けば神仏…西陣で

図子のあちこちにありました。
り・裏千家P1020130 (640x465) り・辻仏P1020113 (640x479) り・辻仏P1020183 (640x472) り・辻仏P1020232 (640x478)

●京の「いけず石」というのがあるそうです。これがそれらしい…
り・いけず石P1020198 (456x640)

「いけず」と云うのは、いじわると云う感じですね。車の通行の邪魔になるから?と云うことなの?。一方、家が壊されないからその家にとっては「御蔭石」という事も云われているようです。何か違う気がします。

この写真の左側の奥に小さなお堂が見えます。この石は、悪霊など災いを直接受けないようにするもので、沖縄などで道の入口などに据えて悪霊や災いを除ける役割をしている「石敢当(いしがんとう)」のようなものだと思います。人間が人間にいけずをしているわけではないでしょう。
西陣で一軒、2階に簾を掛けていた家がありました。簾を掛けて目塞ぎをすると言いますが、一階ならともかく2階ではそんな心配はいらないでしょう。多分、道を通る諸霊を覗いては居ないという記号としての事なのでしょう。

どこを歩いても神仏。京都の印象をそう強く再認識しました。

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