時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

●千住のやっちゃ場、問屋跡は旧日光街道にひっそりと

東京都荒川区南千住から旧日光街道を北に歩き、千住大橋を渡ると、足立区となる。千住大橋の北話東側に鮮魚専門の中央卸売市場足立市場があります。

その市場、実は、青物を扱う千住のやっちゃ場として今なお懐かしく語り継がれています。

千住のやっちゃ場として知られる青果市場は、昭和17年東京都が、河原町にあった青果出荷組合と西新井本木町にあった東京北魚市場を統合して総合市場としましたが取扱量が増えると共に狭隘となり、昭和43年、青果部門を別に移し、魚市場専門の市場となり現在の中央卸売千住市場となっています。

現在の中央卸売市場足立市場に対して、江戸時代から昭和初期までは、もう少し北側、京成線 千住大橋駅のすぐ東側のガードあたりから100メートルあまりにわたって、日光街道沿いに千住青物市場がありました。市場のセリの声が、遠くで聞くと「ヤッチャイ、ヤッチャイ」と聞こえることから「やっちゃ場」と呼ばれたという。

享保年間以後、この地に青物市場が設置された。当時江戸には、神田・駒込・千住の3つの大きな青物市場がありました。青物とは、葉野菜、土物(根菜類)、水菓子(果物) の3種をいい、多くの青物問屋が市場のなかに問屋庭や店前などの売り場を所有し、そこで仲買たちが問屋を介して仕入れた商品を買い取り、さらに小売りである八百屋たちに卸売する場でもありました。

現在では、全国ほぼ同様な旧街道の道路として、大型自動車がやっと一方向に走ることができる程度の道幅で、道路両側には小商店、住宅、事務所ビルなどが建ち並ぶ、ごく普通の街の通りとなっている。

昭和の初期ころまでは、この地にはまだ青物市場が多数軒を連ねて、「ヤッチャイ、ヤッチャイ」というセリの声が響いていたそうです。

それが、この河原町にあった「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4(1576)年になりますが、史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。

市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。

P1020698 (640x472)



昭和5年千住市場問屋配置図があります。一番賑わっていたころが、この頃なのでしょう。

P1020726 (640x467)

この配置図に、現在の様子を追記します。この町を跨ぐように一部に高架の鉄道線路がかかりました。つまり、昭和6年12月19日、京成電鉄・千住大橋駅が開業して現在に至っています。

千住大橋駅

更に別の図を示してみます。これで位置関係はよく分かると思います。

P1020733 (640x450)

この配置図のうち、白抜きの部分がその当時の商店名です。なかなか読みにくいので以下、書きあげていきます。現在、その場所を表す解説の看板が現地にあるものは、その写真をそこで紹介しています。白抜き部の上に、縦長の店名看板が描かれています。

なお、「此処は元やっちゃ場跡」というサイトがあり、やっちゃ場の決定版、と思います。そこにこの解説の看板は、岡本行央さんが和紙に墨で書き木に張り付けたものと書かれています。経年変化しており見難くなっているところもあります、が面白いと思ったので取り上げます。


配置図の横中央が旧日光街道です。その上の方、右から問屋の名前を書きあげます。屋号のマークは山型に一などと略します。

高内長之助・将軍鷹狩休憩所・長店茶屋 → P1020699 (480x640)
磯部・紙たばこ入商・浜松屋 → P1020700 (480x640)
 ー道ー
粉川伝次郎
丸太屋・だんご屋
松本清之助・山型に一 たくあん屋
浅野屋・だんご屋
石井弁吉・傘弁 → P1020701 (640x466)
武井喜右エ門・丸に十 佐野屋 → P1020703 (640x480)
武井善次・投師 ざる屋 → P1020704 (480x640)→ 投師・元出仲買商
武井喜右エ門 丸に十 佐野屋
粉川吉次・こんにゃく屋 → 粉川吉治現五代目→ P1020707 (640x471)
五新 秋本
丸に万の字 よろず屋
遠州屋 車茶屋 →P1020709 (640x480) → 車茶屋とは → P1020711 (472x640)
板橋屋 → P1020710 (480x640)
矩(かね)にさの字 葛西屋 → P1020712 (480x640) → 中村不折と葛西屋 → P1020713 (640x480) P1020714 (640x476)
四角の中に平の字 平塚屋
仲卸 三谷屋 → P1020735 (640x479)
矩に忠の字 吉田屋 P1020734 (640x465)
清水嘉一郎 → P1020722 (470x640)
二合半屋 → P1020724 (478x640)
四角の中に福の字 西川屋
たばこ屋 秋山
 ー道ー
めし屋 佐野新 → P1020736 (640x479)
四角の中に恵の字 唐鎌義雄・恵比寿屋
山崎文太郎・坂川屋 → P1020739 (640x465)
星野政司・柏屋 → P1020741 (640x471)
中野仲次・中野屋 → P1020742 (640x468)
清水屋 → 上に同じ
丸の中に久の字
ー道ー
丸の中に三 山田藤吉・岩槻屋
伊勢屋(伊勢屋七兵衛) → P1020747 (640x473) → やっちゃ場の文化人・建部巣兆 → P1020746 (476x640)

矩に宗の字 鈴木宗太郎 → P1020747 (640x473)
塩屋成田留五郎
乾物屋野村 → P1020748 (640x472)
足袋屋吉田
ニノ宮・水菓子屋
紀の国屋 めし屋
土手七吉本屋
 ー道ー(掃部堤)

もう一度、配置図を採録します。今度は、旧日光街道から下の部分を右から左順に書き上げていきます。P1020726 (640x467)

水信 白川信一 新開橋茶屋
佐野和瀬和一郎
 ー道ー
大河内平二郎 鮒平吉見屋 P1020697 (640x479)
めし屋 一二三
水音 吉野晃二
東茶屋 下駄屋
鮒甚 栗原鉄五郎
太平 高田佐助
そば屋 そば久→P1020702 (640x479)
油兼
中尾根元司 
 ー道ー
白沢 めし屋・水元屋
為成喜太郎 大喜新大阪屋 → P1020706 (640x477) 俳人として活躍の為成菖蒲園
丸に十の字 武井重三 → 佐野屋 P1020708 (640x462)
丸の伊の字 川崎屋
丸にさの字 山崎義雄
角の中に信三 信濃屋
 -道ー
久銀 竹沢銀次郎
丸に山 安室仁一郎
小泉林太郎 足立屋 → P1020715 (640x477)
谷清 谷塚屋 → P1020716 (640x472) やっちゃ場と千住の彫刻家富岡芳堂 → P1020718 (640x473)
星野五郎 丸に柏の字 柏屋
白田慎之介 山に長の字 和泉屋
 ー道ー
海老屋善五郎
福島孫次郎
川崎屋 → P1020737 (640x473)  → 千住ねぎ→ P1020738 (473x640)
元坂川屋 丸に福の字 鈴木正雄
秋山徳三郎 丸に柏の字 柏屋
山崎五郎 本坂川屋 → P1020737 (640x473)
ー道ー
中市 田中市太郎 → P1020748 (640x472) 川魚問屋
矩にカの字 水重 → P1020744 (640x471)
玉峰 石川峰次郎
矢野 駄がし
たちばな屋
     秋本
     米屋細井茄子
桶井 かまぼこ屋
古谷俊一郎 酒店相川屋
下駄屋
    荷車製造 棒屋
 ー掃部堤ー

ここまで、じっくりと読みあげてみると、当時のあり様が頭の中で蘇ります。

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