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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●江戸切絵図持って、ソメイヨシノの染井霊園と六義園へ…

JR線「駒込駅」北口を出るとすぐそばに公園があり「染井吉野の発祥の地駒込」の碑があります。
駅前の道路を渡った所に大国神社があり、その脇を線路に沿ってゆくと染井橋に出ます。左に行くと「六義園」右へ行く染井霊園」へ行かれます。この通りが「染井通り」で、しばらく行くと「植木の里 染井」という案内があります。

植木の里染井案内P1030852 (479x640)

ここには、

……この植木屋の始まりは、染井通りに沿って柳沢家下屋敷(六義園)や藤堂家下屋敷などの大名屋敷があり、これらの広い庭の手入れにかりだされた近隣の農民たちであったと言われています。
染井植木屋の繁栄は江戸時代中頃以降で、藤堂家に出入りした伊藤一族の活躍などでツツジやサツキなど花木類の名所となりました。

と書かれています。

江戸切絵図と現在の地図で確認してみます。

切絵図+現代地図絵図 (640x555)

藤堂家下屋敷は、現在なくなっていますが、六義園が残っていて目印になりますから、江戸時代と現在地とが違和感なく合致します。

この絵図に「此の辺「植木屋多し」とあるのが分かります。

切絵図で「松平時之助」とありますが、ここが柳沢家下屋敷(六義園)です。九歳の当時の当主の名前です。詳しくは、このあとに書いてあります。 ⇊⇊


染井通りの、別の案内板には、<私たちの町は「ソメイヨシノ」のふるさと>、というものがあります。

それには、

……ソメイヨシノは江戸時代末期に染井村の植木屋伊藤伊兵衛により吉野桜として売りだされました。花の美しさ花付きの豪華さからもてはやされ、全国に広がり日本を代表する花木となりました。-略ー
この吉野桜は、明治33年発祥の地に因んでソメイヨシノ(染井吉野)と命名されました。後の調査によりオオシマザクラ(大島桜)とエドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)を交配して作りだしたものと云われています。

その場所に、三本の木が、同時に花をつけていました。➔ 三色揃い咲 染井吉野・江戸彼岸・大島桜P1030856 (640x479)  ← 名前が入っています

染井吉野・江戸彼岸・大島桜P1030856 (640x479)

染井通り寸景です。
 染井通りの居酒屋P1030850 (640x477)   染井通り・大師道の道標P1030851 (640x471)  染井通P1030849 (640x474)

染井霊園P1030861 (640x462)

染井霊園P1030862 (640x480)

染井霊園P1030863 (640x474)

染井霊園P1030864 (640x480)


松平時之助と六義園

六義園は、柳沢家下屋敷の庭園のことですが、この六義園を造ったのが、柳沢吉保。この家系を「松平柳沢」と云いますから、この松平時之助は、柳沢時之助のこと。後の柳沢保申の幼名で、柳沢家の七代目にあたります。

吉保の子吉里が「松平姓」を拝領して享保9年(1724)甲府藩から転封、大和郡山藩初代藩主となりました。ここから数えて保申は大和郡山藩六代目藩主ということになります。

時之助は、弘化3年(1846)生れ。大和郡山藩六代目藩主を二歳の時に継ぎました。この絵図の刊行されたのは、嘉永7年(1854)ですから9歳、幼名。

明治と変わったのが、1868年ですから、二十歳を超えたばかり。松平姓を返上して、大和郡山の教育界で活躍して1893年、50歳を待たずに亡くなりました。

三女の武子は、岩崎豊弥に嫁ぎ、豊弥との間に生まれた長女は、長く昭和天皇の侍従長を務めた入江相政に嫁いでいます。

豊弥は、弥太郎の長男、久弥の子の彦弥太で、弥太郎の養子になる。このとき彦弥太から豊弥にかえた。岩崎弥太郎の嫡孫でもあります。

入江相政は、エッセイストとしても知られていますが、藤原定家を祖に持つ冷泉家の血筋。


和歌の庭六義園

六義園の発行するパンフレットに、「前略…明治に入って三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となりました。その後昭和13年に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。」とあります。柳沢家と岩崎家がここで関係してきます。

六義園パンフレット - コピー (640x460)


吉保の構想された六義園は、どんなものだったのでしょう。

六義園(りくぎえん)
更新日 2012年03月21日 文京区

1695年に、五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が綱吉から賜った地に下屋敷を造り、そこに造成した庭園である。

御殿を六義館(むくさのたち)、庭園を六義園(りくぎえん)と称した。

『詩経』の六義(りくぎ)から園名が名付けられている。

江戸初期に完成した桂離宮の庭園の様式を採用した回遊式築山泉水庭園である。

元禄時代の明るいおおらかな気風を反映した江戸大名庭園の代表的なものである。

とあります。


現在、御殿、六義館(むくさのたち)はその片鱗さえ跡をとどめず、庭園の六義園(りくぎえん)が幾多の変化を加えながら、現在、公開されています。


御殿を含めた下屋敷全体の様子を想定すると

地名入り・柳沢家敷地想定図 (640x629)


全体の屋敷の配置図が入口をはいったところに展示されていますが、撮影禁止となっておりますので使えませんから、園内で配られているチラシを無断で手を加えて想定して示してみます。茶色で示した部分が御殿のあった所。この図の茶色で示した所、これをこの倍ぐらい下に伸ばしたぐらい広い面積だったのでしょう。この写真は、内庭大門とある所に、「六義館跡」とある立て札です。

すでに書いているように庭園の名称は、中国の漢詩集「毛詩」の「詩の六義」(風・賦・比・興・雅・頌という分類)に基づいていると云われています。また、後述しますが紀貫之が書いた「古今和歌集」の序文にある和歌の「六体」に由来します。
そこから庭園は紀州(現在の和歌山県)の、和歌の浦の景勝や、和歌に詠まれた名勝の景観を、八十八境として再現しているのが特徴。
当時は、水戸徳川家の上屋敷、小石川後楽園と並び二大庭園と称されていたようです。

小石川後楽園との大きな違いは、後楽園は、水戸徳川家、二代目水戸光圀が中国風の世界を描いたもに対して六義園は、和歌の世界を描いたもの。

例えば、六義園で、中の島を和歌を象徴する「妹山背山」と呼びますが、小石川後楽園では、仙人の住む「蓬莱島」と中国の神仙思想を現わしています。

「古今和歌集」は、初めての勅撰和歌集で、神聖なものとし、和歌の最高の基準とされており、その序文は、漢文の「真名序」と「仮名序」の二つがあります。

「仮名序」に、「そもそもうたのさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。そのむくさのひとつは、そへうた。云々」とあり、あとの五つについてもつづけて書かれています。まずはじめに、六義の「風」、ものによそえて詠んだ歌について書かれているところに、「その、むくさのひとつ」とあります。ここから「六義館」を「むくさのたち」としているのでしょう。

諸事一般、公式には、漢文が使われていますが、この「真名」は漢文のことで、仮名は、女文字と云われて和歌のための文字です。「古今和歌集」は、この二つで書かれた序文を持っていることが特徴とされています。

下屋敷とはいえ、公式の場である「御殿」を仮名の「むくさのたち」とし、私的な庭園を「六義園(りくぎえん)」と漢文にするなど、ここに、「古今和歌集」仕組みをも利用したようにもが感じられます。


また、この序文で「万葉集」のことに触れています。そして六義園の中心に「藤代峠」が据えられています。

藤代峠解説P1030887 (640x480)

上に見る通り、「有馬皇子」は、「万葉集」の悲劇の人物。孝徳天皇の皇子。斉明天皇の時、謀反を企てたという名目で、その誤解も解けずに処刑されました。

この藤代峠から和歌の浦、紀ノ川が導かれ、細部が構成されていったように思われます。

藤代峠からの展望P1040028 (640x480)
藤代峠からの遠望

中の島の妹山背山(妹背山)。手前の水面が和歌の浦

中の島妹山背山P1040017 (640x478)

中の島へ渡るには、船か「田鶴橋」を渡ることになります。この島は和歌三神の一、「玉津島神」の依るところとして通常は立ち入り禁止となっています。「玉津島神」は、和歌山にある神社ですから神域を象徴しているのでしょう。

中の島へ渡る田鶴橋P1040013 (640x479)

田鶴橋。左が中の島(妹山背山)。その前の水面が和歌の浦。

万葉集の、山部赤人の

わかのうらに しおみちくれば かたをなみ あしへをさして たづなきわたる

「たづ」は、「田鶴」です。この庭園の大きなテーマがここに感じられます。

万葉集では、人麻呂、赤人を格別の人として扱い、そのほかにも優れた人がいるとし、「さきのうたをあつめてなむ、万えふしふととなづけられたりける。」と、仮名序に書かれています


和歌とは、どう受けとめられていたのでしょうか。

「源氏物語」を書いたという紫式部、物語をもって人心を惑わしたという罪で死後苦しみを受けていてその供養をして成仏させるという内容の能が「源氏供養」です。

一方、奔放な恋や生き方を通した和泉式部は、歌人として人に知られています。和歌の力をもって歌舞の神として現れるという能が「誓願寺」です。

武家の式楽であり、教養のひとつとして能が舞われておりました。

吉保の動静を確認してみましょう。

仕えていた徳川綱吉が「生類憐みの令」を初めて出したのが1687年。不評は吉保に向けられました。

1695年 許しを得て造園に着手。

1696年 儒学者荻生徂徠を500石で召抱えました。その意見を取り入れ「経世済民」の政策を勧めましたが思うような成果が上がりません。

1701年 播州赤穂藩主浅野長矩、城中で高家吉良吉央を傷つけ、切腹、改易される。
1702年 赤穂浪士大石良雄ら吉良吉央を討つ。
1703年 幕府、大石良雄らに切腹を命ず。この決定は、江戸庶民感情から乖離した決定で、不評。吉保の胸中は複雑だったでしょう。この一件の処理について、吉保と水戸徳川家という立場の水戸光圀とはしっくりいかぬところがあった?

先ほど放送終了したTVドラマ「水戸黄門」では、何かと口を出す光圀を嫌う柳澤吉保との暗闘がテーマになりお茶の間を楽しませていました。

六義園が完成したのは、この1702年のことです。築庭の費え、その後の維持管理には、相当な出費を覚悟しなければなりませんから、権勢の大きさを誇示した行為として受け取られていたのでしょう。

1709年 綱吉歿。吉保、致仕を願い出て、吉里に譲り隠居。六義園に閑居と年表には記されています。綱吉なき所にもう吉保なしということからの致仕だったのでしょう。

正しいと思う政策が不評続きだったこと、赤穂事件の対処で一気に離れていってしまった庶民感情。

思うのは、有馬皇子のこと、歌舞の神として讃え仰がれた和泉式部の死後のことなど、どのような思いで庭と対面していたのでしょうか。

そして、1714年 吉保歿


その後、この「六義園」を十分に楽しんだ人がいます。柳沢家三代目の信鴻(のぶとき)です。

1745年から1773年まで大和郡山藩二代藩主を務めた後、藩主を保時(やすとき)に譲り、1773年から1792年に歿するまで、下屋敷に住み自由に生きた人がこの人です。

吉保の孫に当たる信鴻によって、六義園をめぐるさまざまのことが「宴遊日記」に書き残されています。今は、活字化されていて、B判で950頁に登る膨大な分量で存在します。

病気がちだったことを表向きの理由にして、致仕を請うたものと思われ、染井の別邸に移るまでの5月までは、幸橋の上邸(上屋敷)に籠ったきりで、正式に隠居が認められると、松造りに精を出し、浅草、湯島聖廟、鬼子母神、諸寺参拝、菊見、花見、江戸三座などへ芝居見物。また、俳人として天明期の江戸俳諧の雄でもありました。

この日記は、安永2年(1773)正月から始まっています。ほんの一部を抜き書きしてみます。

安永二年(1773)
正月元日 ○元日、予致仕の望あれハ家居して参らす…以下略

と始まります。

許しが出て、

5月17日 明日染井へ引移。…以下略
5月25日 ○智岸様より干平魚・翁屋煎餅給ふ○昼前少転寝○青峨より海鮮貰ふ○昌随出、逢ふ○珉雪彫刻印三出来○お永より使に来○疋田出、表にて逢○鉢うえ四ツ来○海肉藤田へ遣す○妹背山草を除○半左衛門よりお隆へ文、鰒来、三百員頼み来…以下略
 ※「お隆(りゅう)」は、十歳下の四十歳の妻女。三百員は、屋敷手入れの助っ人? 
5月29日 (具体的に詳細な記述は、上に見る通りですが、省略して庭内で路に迷う部分)○朝珠成同道、園中へ出、藤代山にて驟雨至、樹下に休み、なほ降まさる故いそきかえる、路に迷ひ又銀花庭にでるゆへ引かへしてかへる、路にて八百・りよ傘を持来る頃、雲晴雨止む…
 ※視界が見えぬほどの樹木があったことが窺がわれます

安永四年(1775) 
11月10日 ○田鶴橋西辺崖上の芝を刈、御霊殿参詣…以下略
11月11日 ○昨日米徳持参の紀行発句添削、明日遣す…以下略
11月19日 ○4半頃保牛来逢、九半過帰○蘆辺芝を焼、銀鵞へ手帋、廿四日入句遣す、米社句も遣す○妹背山芝を刈…以下略  
12月18日 ○上野維摩院(寒松院也)より樒柑・納豆貰ふ○菊堂会入句渡す○九過より浅草参詣、共小枝・穴沢・雄島・・高田・溝口・梅原・塗大に直る、谷中通り、首ふりの下三辻にて松平造酒之丞に逢、道を除け名を問しむ、三河やに休み、御堂内を通り参詣、…略… 広小路にて柊棒木・伽羅木を求め、梅本に休み、樹は池端を廻し、黒門より帰る、七過帰蘆○羽子板をおかね、樒柑をお隆、醴を岑につかハす…以下略

安永六年(1777)
正月23日 ○愛染院来、深大寺挽抜蕎麦貰ふ、表住居見せ干糕遣す…この日は、来客多く、錦絵・沢庵漬・干糕をもらったり土筆摘みなどをしている

天明四年(1784)
7月朔日 ○昼前観音参詣○昼過お隆と園中雑草払ふ…○七過お隆と園中閑歩、雑草払ふ、今日甚涼し…以下略
9月20日 ○朝観音参詣○京か為に槇柱の巻を講す○昨日珠来より百韻来○易難へ巡達○吉田次郎衛門来、園中見する(此春参府)○昼過お隆と園中閑歩、椎を拾ふ○七時より初音・胡てふの巻を講す○今日寒冷如冬○松魚より発句集四葉板行出来来る○夜三絃 ※この日は、これで全文。
9月卅日 ○近藤案内伊勢屋宇兵衛(幸橋門前)田原祐閑園中見する○珠成より百韻付合来る○成慶院より安楽院使
僧に来る○和助案内鈴木内蔵太・高田小弥太(小笠原能登家来)園中見する…以下略
 ※園中を見る予定や町人の来訪が続く

芝居や浄瑠璃へは頻繁に見に出かけていて「別録」として詳しい記述があります。親しくなった芝居茶屋の人たちを庭に招いたり、そのつてを頼って庭を見たいという人に庭を見せたり、自作の狂言を花道付きの舞台を作って出入りのものや使用人を役者に仕立てて演じたり、その合間に庭をいじっています。

この「宴遊日記」は、三一書房 「日本庶民文化資料集成 第一三巻 芸能記録(二)」に収められているもので、そのことにも驚かされます。


さしもの「六義園」も70年も過ぎました。

文化六年(1809)信鴻歿後後を継いだ保光が大修復を実施したとのきろくありようですが内容を掴んでおりません。

明治に入って藤堂家下屋敷、柳沢家下屋敷をはじめ、あの辺り一帯を岩崎弥太郎が買い上げ、六義園に別宅を建て弥太郎が住みました。

『六義園が弥太郎の在世中どの程度まで復旧工事をすすめたがは明らかではないが、弥太郎の没後、弥之助(弥太郎の弟)は1886年(明治19年)に修復の工事を進め、新たに下総の山林(後の「末広農場」)から樹木数万本を移植し、各地から庭石を集めて、往時の景観を復元した。また園内各所に瀟洒な亭?を建て、六義館の跡には小邸を造築した。』(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)。

とあるそうですが、その建物は、戦災などで焼失。つつじを材として造ったという「つつじ茶屋」が残っているだけです。

つつじ茶屋P1030884 (640x480)

謎として残るのは、「蓬莱島」。神仙思想のもとに考えられている仙人の住む「蓬莱島」と考えると和歌の庭園にはは、あり得ないもの、そしてその形にも違和感が拭えません。

蓬莱島P1030877 (640x466)

これがその「蓬莱島」とよばれているものです。

信鴻の日記、「宴遊日記」により生活の場としての庭園を身近にしてきました。
そして保光の大修復、明治期、戦災で形を変えてきていることは、はっきりしています。例えば、現在、一番人気の「しだれ桜江戸彼岸桜」は、戦後のもの。…など、など。

今ある庭園を過去のあれこれを考えながら散策をすると、なお、面白そうです。

JR線「駒込駅」北口に出ますと公園がありそこに、「染井吉野発祥の地駒込」の碑があります。

駅の向こうに大国神社があり、その脇を線路に沿ってしばらく行くと染井橋。これを左に行くと「六義園」へ。右へ行くと染井霊園へ行かれます。この通りが「染井通り」で、更に行くと「植木の里 染井」という案内があります。

植木の里染井案内P1030852 (479x640)

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