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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●ありがた有馬の水天宮

河童伝説から…

 江戸時代、「ありがた有馬の水天宮」とか「なさけ有馬の水天宮」と云われて江戸庶民の人気を集めていた水天宮がありました。
 
 安政4年麹町六丁目 尾張屋清七板の「芝三田・二本榎 高輪辺絵図」をみると、赤羽橋を渡って左手にあるのが松平修理大夫(薩摩藩島津家)の上屋敷。赤羽橋を渡って右手、中ノ橋にかけて、有馬中務大輔とあります。それが久留米藩上屋敷の有馬屋敷。此処の水天宮がそれです。絵図に、藩邸内に水天宮が描かれています。
 
 神奈川大学の小馬徹教授、国立歴史民俗博物館の岩淵令治氏の資料をもとに物語を先に進めましょう。
 文政元年(1818)有馬頼徳公が江戸詰になった時、領地久留米の水神社、尼御前神社の御分社を神主に命じ勧請しました。そのとき、頼徳公には、当時江戸では、九州五島藩の上屋敷で起こった河童の噂が頭にあったのでしょうか。
 
 その噂。「福江市史」に、次のように伝えられてています。
 『大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名であるが、河童を祭ってあり、前面の深淵には河童の大将が住んでいると言い伝えられている。享保八年(1723)二月十六日、江戸麻布六本木の五島家上屋敷が類焼した。そこで、時の藩主第26代盛住は、火の用心のためにと、この神社の分社を同屋敷内に建て奉祀した。
 
 その後、隣屋敷である小田原藩主大久保家に火災が起り、正に五島邸に燃えうつろうとした寸前、突然五島邸より大勢の消防手が現われ、またゝく間に火を消し止めたという。
 
 その消防手は人間でなく、水神社の河童であったことが江戸市中の大評判となり、参拝者が多かった。そこで、五島邸では長さ十五センチ巾六センチの「水天宮御守」を作ったが、飛ぶように売れたので、旧藩時代はその収入で大変うるおったということである。』福江市は現在、五島市となっている。
 
 江戸藩邸に尼御前社を勧請するに当たって、有馬頼徳はこの水神社を名を変え「水天宮」として祀りました。
 
 尼御前社(天御前社)は、水難の守として、祭神を天御中主神、安徳天皇、高倉天皇中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀ります。筑後川下流の氾濫原(鷺野ヶ原)で小祠を転々と移しながら巫女集団(天御前)を率いる真木志津摩は、源平合戦の有様、平家の最期、壇の浦の戦いで、二位の尼が安徳帝に「海中にも都は候ぞ」と云って入水する場面を水神様と重ねて後の瞽女のように門付で、語っていたのでしょう。後に、久留米の尼御前社は、藩邸の水天宮に因み、「水天宮」の総本宮と名を変えるという展開をします。
 
 有馬屋敷の水天宮は、河童伝説の伝播に大いに関係したとも云われていますが、この水天宮、子育守として変わっていきました。古くなった鈴の緒を身に付けた所安産になった、と云う噂が広まり、藩邸の塀の外からお賽銭が投げ込まれるようにもなり、縁日の五日は藩邸を開放。「ありがた有馬の水天宮」「なさけ有馬の水天宮」と江戸の人気のスポットになり、安政年間にはお札や帯などのその収入は二千両になったという記録があるそうです。資料によると、大名藩邸53、御三家付家老、旗本の屋敷まで含めて約70程の神仏が庶民に公開され、それぞれの家の貴重な財源になっていたようです。
 
 有馬屋敷は、絵図で見る通り、現在の三田、赤羽橋を渡った所にありましたが今は、「済生会病院」が建っています。明治に入り有馬屋敷の移転とともに赤坂に移り、明治五年に人形町に移りました。

日本橋人形町の水天宮がそれです。

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