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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●「呉服」しだれは、垂れ梅の名前。

名札・呉服しだれP1050173 (640x457)

花の様子 ⇊

呉服枝垂れP1050171 (640x480)

羽根木公園には、上の写真のほか、何本も呉服しだれがあります。これもその一本

くれはしだれP1050183 (640x480)

名札・くれはしだれP1050185 (640x474)



梅園の呉服しだれに雨の降る

…呉服しだれは、「くれはしだれ」。しだれ梅の名前。満開の花弁は、先がほんのり淡く見える。開花期:2月上旬~3月中旬、桃色、中輪・八重咲き。花後の樹形も楽しめる。よく「呉羽」の表記をしていることがありますが、織物の技術を我が国へ伝えたという伝説の姉妹の一人の名前、「呉服(くれはとり)」に因んだ命名ですから、呉服と書いてほしいと思います。羽根木公園では、正しく「呉服しだれ」とかいてありました。
呉服(くれはとり)について、そのものがたりは以下のようなものです。

呉服 漢綾 くれはとり あやはとり 物語           
           
 「呉服」は、いまは、「ごふくと」とよみますが、これを「くれはとり」と読むのは能の「呉服」。「くれはとり」というむすめが主人公です。
 あらすじを公演プログラムから引用します。
 
時の帝にお仕えする臣下が、摂津住吉明神に参詣の後、西宮に向かいます。呉服の里にさしかかると、松原から機織りの音が聞こえて来ました。

里の女が二人。一人は機(はた)を織り、一人は糸を引いています。常の人とも思われず、名を尋ねますと、昔応神天皇の御代に呉国から渡来した呉織(くれはとり)漢織(あやはとり)と名乗り、めでたい聖代なので、再びこの世に現れて来たと素性を明かしました。そして呉国から帰化した織女が、呉服の里で綾の衣を織り、帝に献上した渡来縁起を語り、夜もすがら御調の綾を織りましょうと言って、姿を消しました(中人)。夜になり、呉織の女神が現れ、織姫の舞(中之舞)を舞い、綾を織って帝に捧げ、栄える御代を祝福するのでした。

こうしてめでたい舞をもって一曲が結ばれます。

能の中に、呉服の里と出てきますが、現在、大阪池田市に、呉服神社があります。祭神は、呉綾織大神 仁徳天皇です。縁起を以下に。

「…略…機織裁縫染色の技術が我国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まりました。尚、四季には上妙の衣服を天子に献じ、下は万民に施されました。仁徳天皇の七十六(385)年九月十八日、呉服の大神は御歳百三十九歳という人生に倍する御長寿を以て、お隠れになり、その御遺体は今にその跡を残す梅室、御形見なる三面の御神鏡は姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳天皇が勅令を以て御神祠をお建てになりました。
 
「この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井と称し、その糸を掛け晒しになりました数本の老松を衣懸松と名付けその跡は今も残って居ます。大神の御託宣に『我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し、且つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難をも無からしめん』とあります。代々の帝、殊にご崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、下って後陽成天皇の御宇には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じて再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御勅祈願所となりました。因みに呉服大明神の御名は後醍醐天皇より賜りました。御宸翰より起こり、又これにより我国にて絹布の類をすべて『呉服』と称することになりました。」

以下は、略します。

呉服とは、古くは「くれはとり」といい絹布の類をいう言葉であることがわかりますす。
 
能、「呉服」の初演は室町御所笠掛馬場で、世阿弥は、珍しく、舞台に大きな機台を出したということです。室町御所とは、「花の御所」と云われたところ。

「笠懸」は、平安時代末ごろから行われた走る馬上から矢を射る騎射の一種で、そのような場所での演能でした。

「機」ですが、過日国立博物館で「国宝大神社展」が開催され、福岡宗像神社から国宝の「金銅製雛機(奈良ー平安時代)が出ており、織機が神への捧げものとして重要な意味をもっていたことがうかがわれます。同様の機織は伊勢神宮にも伝えられていると言います。雛機の「雛」とは、ミニチュアのことですが形状機能とも現在見掛けるるような機織り機と同じに見えました。
 
渡来人秦氏は大和猿楽の祖であり、また、養蚕・機織りの祖。献上した絹織物を天皇がお召しになって、「やはらかにして肌膚(はだ)あたたかなり」と、波多の姓を賜ったことが「新選姓氏録」に記されていると言います。

その秦氏の子孫である大和猿楽者が祖霊にささげる讃歌としてつくられたのがこの「呉服」。 なお、「呉服」は喜多流を除き、四流が現在も上演されています。

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