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時の流れの落し物

日常生活の中で生れたもので、今は忘れられているもの、そんなものを見つけていきたい。

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●日本三奇橋の一つ猿橋。そこから見えるものいくつか…

JR中央線、「「猿橋駅」を下りるとあの「猿橋駅」とは、違うように思えました。むかし甲府へ行くときには、その途中、猿橋を左手車窓から、あの独特の橋の様子を眺めていたように思います。いつかそんなことを忘れてただ先を急ぐだけになって猿橋が見えなくなっていることなど気がつかぬようになっていました。

Wikipediaによると…
「1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。」
と、いうわけで46年も前にもう見えなくなっていたと云うことです。何回も通っているのに迂闊このうえなしです。

猿橋駅の沿革
1902年(明治35年)10月1日 - 国鉄中央本線 鳥沢駅・大月駅間開通と同時に猿橋駅(えんきょうえき)として開業。旅客および貨物の取扱を開始。
1918年(大正7年)8月1日 :駅名の読みをさるはしに改める。とあります。
1889年(明治22年)04月11日 : 甲武鉄道新宿 - 立川間(16M74C≒27.24km)開業。
1902年(明治35年)10月01日 : 鳥沢 - 大月間(4M14C≒6.72km)延伸開業。猿橋駅、大月駅開業。
1963年(昭和38年)09月30日 : 猿橋 - 大月間複線化。
1968年(昭和43年)09月20日 : 梁川 - 猿橋間複線化に伴い線路付け替え。

今回、猿橋を訪ねて同駅を下車。なにはともあれ、歩いて15分くらいで猿橋へ到着。

名勝猿橋の標と橋下の結構P1050318 (640x480)

そうです。むかし車窓から見たものに間違いありませんでした。

ところが、

「猿橋の全長は31メートル。桂川の川面までは30メートルあります。現在の猿橋は、総工費3億8千万円を費やして昭和59年(1993年)に架け替えられたもので、国の名勝文化財指定の地として、平成の旅人たちを迎えています。」と、こちらは、30年前に架け替えられていました。これも肩透かしです。

猿橋から見た桂川P1050314 (640x463)

上の写真は、橋上から眺めた桂川の流れです。

名勝・猿橋案内P1050316 (640x478)

「名勝 猿橋」           昭和7年3月25日指定     <文字起しをしてみます>
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)百斉の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。

史実の中では、文明19年(1486)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
 
応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。

江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行なわれてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。

昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。

今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。

昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8干3百万円であります。
橋の長さ、30・9メートル、橋の幅、3・3メートルです。
                                     大月市教育委員会」
と書かれています。

橋のたもとに、「大黒屋」があります。
むかしは、旅館だったようですが、今は、休み茶屋。国定忠治がよく立ち寄ったとかいうところから「忠治蕎麦」が名物です。蕎麦のほかに馬肉の竜田揚げがついてきます。

大黒屋の外壁に大きなレリーフが懸けられていてそこには、「明治39年、この大黒屋に、渋沢元治と小平浪平が宿泊。(株)日立製作所の創業の打ち合わせが行なわれました。写真は日立創業80年を記念して、日立工場「特称会」から寄贈された作品。」と書かれています。
               猿橋大黒屋・日立製作所創業会談の場

内容は、後年、渋沢元治氏書かれた文章で、当時、逓信省電気試験所技師であった渋沢元治氏が、同窓の当時、東京電燈の技師送電主任であった小平浪平氏とが、駒橋発電所(15000kW)建設という画期的な大工事(日本最初の特別高圧送電)に関係して、甲武線(現中央線)車中で逢い、小平さんの求めに応じて明治39年7月15日の晩に猿橋の大黒屋に宿泊して、会談。「この会談で小平浪平氏は、本邦に電気製作事業を起こそうという抱負を語り、後年日立製作所の創業社長としてこれを実現した。」と結ばれています。

渋沢元治氏がこの水力発電所の設備はすべて、欧米からの輸入品でその素晴らしさを視察してきた経験から話し、小平浪平は、国産の技術を持たねばならないと語る両者の会談は、盛り上がったものであったと思われます。

渋沢元治氏は、後、東京帝国大学教授となり、ついで名古屋帝国大学の初代総長となっておられるようです。

創業50年を記念して日立製作所の初代社長の名を冠した「小平記念東京日立病院」が東京・湯島に開設されました。創業100年は、無配となり記念行事は、行われず、年を経て、今年(平成26年)春、この病院は、医療法人大坪会「東都文京病院」として事業の継続を託し、創業社長の名を冠した病院は50年を経て無くなりました。時代が変わったことが実感されます。

話を戻し、猿橋のたもとには、山王社がありました。猿の守り神ですね。
猿と云えば、奈良県土津川村、徳島県の奥祖谷に川を渡るゴンドラがあり、それを「野猿(やえん)」と云うようです。サルが手を継ぎあって移動する姿が川を渡るイメージなのでしょうか。

猿橋を渡った対岸の景色です。山深い感じがしますが民家もありますね。

猿橋を渡った向う岸P1050313 (640x472)

猿橋の右手がかつて鉄路があったところでしょうか。また八つ沢ダムの水路橋もあるようです。二つ見えました。

その一、茂りの中にレンガ造りの壁が見えますが、これが廃線となった隧道?

茂りに埋まる旧大原隧道P1050322 (640x480)


その二、また、これは、八ツ沢発電所の水路橋?

八つ沢ダム水路橋

崖を下りるところがあるようで、下りてゆけばはっきりするでしょうけれど、現在の体力ではムリ。その辺り、何かと発見がありそうな場所のようです。
心残りですが…

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